今回は台林の石造文化財と、先延ばしにしたままになっていた道園の線彫板碑・石塔群を紹介します。
37 稽古庵跡の石造物
付近に適当な駐車場がないので、少し離れたところに車を停めます。このシリーズの初回の冒頭で申しました場所に駐車するとよいでしょう。県道653号を少し海側に歩いて、交叉点を左折し県道708号を歩いて進みます(標識あり)。前田部落にて三叉路に出ますのでこれを右折し、堅来越にかかる直前、道路の左側に説明板があります。
内容を転記します。
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市指定史跡
伝 吉田光由の墓
渡辺藤兵衛の墓
大字夷字台林
寛文の頃
吉田光由は江戸時代初期の大数学者で、主著は有名な塵却記である。晩年熊本の細川侯に仕えていましたが、そこを辞してから諸国を漫遊していました。夷の地に来て風光と人情が気に入り、稽古庵という塾を開いて当地の子弟を教育しました。
しばらくして吉田光由の門弟渡辺藤兵衛が師を捜し求めて夷に来ました。吉田光由は寛文12年に亡くなりましたが、その墓がこの無銘の墓だと伝えられています。
渡辺藤兵衛は宝永4年に亡くなりました。その墓に見られるとおり法名俗名等はっきり刻まれています。
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塵却記(じんこうき)と申しますのは算術の教本で、四則演算はもとより平方根、立方根、面積計算など多岐に亙る内容で、江戸時代の数学の発展に大きく寄与しました。その著者である吉田光由の墓碑が夷谷の地にあるとは驚きです。ただしこれは伝承であり確証はないようですが、それでも渡辺藤兵衛の墓碑があることから、ある程度は確からしいということなのでしょう。
この説明板は林道への上がり端に立っておりまして、稽古庵へはここから左折して簡易舗装の林道を上っていきます(普通車までならどうにか通れますが駐車場所がありません)。すると右側に六地蔵様が並んでいるところがあって、その辺りから急斜面を横切る細道を辿ればいくつかの墓碑が見られます。足元が悪かったので上までは行きませんでしたから、どの墓碑が吉田光由のものか分かりませんでしたが、周辺の石造物を紹介いたします。
道路端に六地蔵様が並んでいます。六地蔵様は死後の私達を救うてくだいますので、墓地の入口によう並んでいます。このようにめいめいが単体である場合もあれば、横長の石板に半肉彫りになっていることもありますし、または舟形の碑に上下に分かれて3体ずつ彫ってあることもあります。国東半島では作例が多くはないものの、六地蔵塔(重制石幢)を立ててある場合もあります。
左に倒れている碑は銘が消えており、詳細は分かりませんでした。墓碑ではないと思います。三界万霊塔かもしれません。
すぐ近くの御室の中には数体の仏様が収まっており、中央はお弘法様のようです。2体がセットで、中山仙境の尾根道に点在している新四国の札所と一連のものなのでしょう。
小さな仁王像が1体のみ立っており、痛ましいことには首が取れてしまっています。15年ほど前に訪れたときには、確かに頭がありました。それ以降に転倒して破損したと思われすが、さて頭部はどこに行ってしまったのでしょうか。また、この仁王さんは対になっていたような気がしますが、わたしの記憶違いかもしれません。
高いところに何らかの祠が見えましたが、足下が悪かったので遥拝にとどめました。
38 台林の庚申塔(下)
六地蔵様のところから林道を少し上れば、右側の斜面に庚申塔が1基倒れています。気を付けて歩けばすぐ分かります。溝を跨ぎ越して急斜面を少しよじ登らないと見えづらいので、足下に気を付けてください。
倒れており苔が目立つものの、碑面の状態は比較的良好で諸像の細部まではっきりと分かります。一見して、道園の庚申塔(前回紹介しました)とそっくりであると感じました。蓋し同一の作者によるものでしょう。
上から見ていきましょう。上部の縁取りは緩やかな波形を描き、そのすぐ下には図案化された瑞雲が見てとれます。曇り空やら、日月はよう分かりません。主尊は火焔輪もささやかに、頭巾を被って目を瞑り、口をヘの字に曲げて神妙なお顔でございます。6本の腕の収まりがよく、合掌した腕のほかは三叉戟や蛇などいろいろ持っており、ショケラは今や消え入らんとするささやかさです。蓮台に立ち、すらりと背が高くさても高貴なる雰囲気ではありませんか。
蓮台の真下では鬼が1匹、刀を逆さに持ってほんに勇ましげに仁王立ちの風情です。その両脇には童子が夫々中央を向いて立ち、主尊よりもむしろ夜叉に仕えているように見えますのもおもしろうございます。しかもめいめいが素朴な風貌で、おかっぱ頭が可愛らしく、この塔で特に好きなところです。童子の真下では鶏がこれまた夜叉の方を向き、その真下ではいたずら者の猿がこれ見よがしのガニ股で「見ざる言わざる聞かざる」のポーズをとっています。
この塔は碑面いっぱいに諸像が配されており賑やかで楽しいうえに、対称性を考慮したデザインには均整の美が感じられ、秀作と言えましょう。枝や落ち葉がかかっていることが多いので、見学される際に少し払うて頂くと粗末にならずに済むと思います。
39 台林の棚田跡
下の庚申塔からさらに林道を上っていきますと、左側には冒頭の写真のような棚田跡が広がります。ここから上の方までずっと段々が続いていて、石垣が見事なものです。棚田にしては比較的畝町が広いのが特徴で、耕作の利便性を考慮して石垣を高く積んだのでしょう。植林の生育状況から、耕作放棄されてずいぶん経つと思われます。国東半島のあちこちで棚田跡が見られますので特に珍しい風景ではありませんが、ここ台林の棚田跡は比較的規模が大きいので項目を設けてみました。
なお、この辺りの大岩に磨崖仏が彫られているそうで、少し捜してみたのですが訪ね当たりませんでした。またいつか捜しに行ってみようと思います。
40 台林の庚申塔(上)
棚田跡まで来たら、右上に注意を払いながら林道を上っていきます。道路から高い位置に庚申塔が立っていますが少し離れているので、見逃さないように気を付けてください。段差が高くて直接は上がれません。一旦通り過ぎて、段の低いところから登って折り返し、適当に斜面を横切っていけば塔の近くに行けます。
手前に刻像塔、その後ろには文字塔が数基立っています。それでは手前から順番に見ていきましょう。
青面金剛6臂、2猿、2鶏
下の刻像塔よりもシンプルなデザインです。日月は枠外に彫ってあり、瑞雲は見当たりません。主尊のお顔が分からなくなっているのが惜しまれます。上部にはかすかに火焔輪あるいは光輪が残っており、ほかの部分も良好であることから、或いはこのお顔の傷みは意図的なものではあるまいかとも思いました。所謂「異相庚申塔」に分類されるタイプで、合掌した腕以外の4本はX型の配置で、大きな蛇を持っています。この蛇がなんとも不気味です。羂索の写実的な表現とは対称的に、三叉戟などは多分にデフォルメされておりますのも何をか言わんやといったところですが、詳細は分かりません。衣紋には墨の着色跡がよう残ります。
主尊の足元に取りすがる猿は稚児の戯れるようにも見えてまいります。このような表現の猿は国東半島でときどき見かけ、これまでにも何度も紹介してきました。ところが国東半島以外の地域で見かけた庚申塔では、このような表現は今のところ目にしておりません。鶏はささやかながらも尾羽を豊かに垂らしています。対称性を崩して配置してありますので、猿の様子とあわせて生き生きと楽しそうな雰囲気が感じられました。
正徳三年天、巳二月十二日の紀年銘があります。この「天」は年と同義と認識しておったのですが、このように年と天を重ねてあることから本来は同義ではないのでしょう。どういった意図で年と天を重ねたのかは不勉強で分かりませんでした。下の枠の中には5人のお名前が墨で書いてあります。
板碑型の文字塔です。碑面には位牌型の枠が見えますが、肝心の銘は全く読み取れませんでした。墨で書いてあったのでしょう。
数基ある文字塔のうち、銘がもっともよう残っていたのがこの塔です。やはり墨書で、読み取りは困難でした。ところが下の枠の中の人名は容易に読み取れます。
手前は全くののっぺらぼうで、墨で書いてあった銘が消えたか、または庚申石の類ではじめから何も書いていなかったのか判断に迷うところです。奥は枠の中に、僅かに墨の痕跡が認められますが読み取れませんでした。
41 尾鼻岩屋手前の石塔群
車は置いたまま尾鼻の庚申塔(中山仙境登山口)まで行き、二股を右にとって西夷の谷に入ります。ほどなく、左側の民家の入口に「道園線彫板碑」の標識があります。ここから民家の坪を横切っていくことになりますので、見学の際は時間帯を考えて見学の旨を伝え、迷惑にならないように配慮しましょう。
民家の坪を過ぎて坂道を上っていくのですが、その脇にたくさんの五輪様・宝塔が並んでいます。もとはこの辺りに散在していたものを、粗末にならないようにお住まいの方がきちんと安置されたそうです。一部後家合わせになっているものもありますが、これだけの数が並んでいると壮観です。
42 尾鼻岩屋
石塔群を過ぎて坂道を上っていき、道が平坦になったところで左側に線彫板碑の説明板が立っています(説明の都合で次の項で紹介します)。その説明板のところから、獣害防止柵を通り抜けます。この辺りは鹿や猪に困っている方が多いようですから、開けたら必ず元の通りに閉めてください。
小屋の裏に回り込み、この坂道を上っていきます。探訪時、はじめのうちは楽なものじゃわと意気揚々と歩いたのですが、すぐに急坂になり青息吐息の首尾でした。
急坂を登れば、壊れかけた石段に出ます。これを上ります。浮石がありましたので通行に注意を要します。また、枝などが落ちていますから杖で払いながら行くとよいでしょう。
登り着いたところがある程度の平場になっています。昔はこの場所に堂宇があったものと思われます。この崖は中山仙境の岩峰群のねきで、岩屋をこしらえて中にお弘法様などの仏様が安置されています。岩屋には石造りの壁が設けられ、上部の立派な装飾が目を引きます。その下には「一番岩屋堂」と彫ってあり、中山仙境周辺に分布する新四国の一番札所であることが分かりました。
また、「敬神崇佛常●和楽」の文言も見られ、まことほんとに、神仏習合の地であることを実感いたしました。この文言が彫られたのが昭和7年でありますので、なおさらそのように感じます。
43 道園の磨崖五輪塔・連碑と石塔群
さて、いよいよ線彫板碑です。まずは先ほど申しました説明板を紹介します。
内容を転記します。
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県指定 道園線彫板碑
時代は不詳。宝篋印塔・五輪塔などの林立している背後の岩に線彫りされており、連碑となっている。
岩は2つになっており、右の岩に21面ある。高さ104cm、幅10cmで連立して並んでいる。左の岩には29面ある。高さ119cm、幅15cmである。浅い線彫りなので見にくくなったところもある。ずっと左方の岩にも22面ほどの線彫連銘がある。
昭和28年、県指定有形文化財に指定された。
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説明板にある「左の岩」には行き当たりませんでしたので、右の岩のみ紹介します。尾鼻岩屋から右の方に歩いていきます。参道と獣道が交錯して踏み跡が不明瞭になっていますが、適当に上り気味に斜面を横切っていけば分かると思います。
大岩の側面には磨崖の五輪塔が彫られています。ごく薄い彫りですが状態は良好です。それにしても、すぐ傍にたくさんの石塔群が散在しておりますのに、どうしてわざわざ五輪様を磨崖でこしらえたのでしょうか。
この場所にあるたくさんの石塔類の中でも最も立派で、かつ状態がよいのがこの宝篋印塔です。ほとんど傷みがないのは奇跡的と言えましょう。塔身の梵字や格狭間の装飾までよう残っていますし、隅飾りや段々の面も角がくっきりとしており、露盤や相輪まで完璧です。これは素晴らしい。全体のバランスがよく、秀作といえましょう。
周囲では板碑などが滅茶苦茶に倒れてしまっており、残念に思いました。たいへん不安定な立地なので致し方ないとは思います。折れたりしていないのが幸いです。
この面に線彫りの連碑が残っています。彫りがごく浅いのと光線の加減で、写真では全く分かりません。実物を見ればすぐ分かります。
上に丸い枠をとって中に梵字を彫り、下部には見事な磨崖連銘が残っています。こちらは写真でも分かりやすいと思います。めいめいの板碑には何らかの文言が書いてあったのかもしれません。また、写真の五輪塔はほんの一部です。広範囲に亙って五輪塔が散在しております。急斜面ですから、ばらばらに壊れて枯葉に隠れているものもありそうです。
今回は以上です。今日、久しぶりに白川稲荷にお参りに行きましたらブヨに刺されてしまいました。もう少し涼しくなるまで、名所めぐりもなかなか難渋いたします。次回は吉野シリーズの続きを書きます。