大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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稙田の名所・文化財 その4(大分市)

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 久しぶりに稙田の名所シリーズの続きを書きます。今回は露(あらわす)の石造物、宮地の庚申塔浅草神社、下宗方の石造物を紹介します。道順が飛び飛びになって少し分かりにくいかもしれません。

 

7 露の石造物

 高瀬石仏の駐車場からスタートします。七瀬川自然公園を正面に見て、左方向に道なりに行きます。道路左側に八鉾社上り口(以前八鉾社を紹介したときのルートとは別の道です)の小さな看板があります。そのすぐ先、左側に石幢などの石造物(冒頭の写真)が道路から少し見えます。あっという間に目的地に着きました。車はその石造物への道の上がりはなに駐車できます。

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 右手前は単制の石幢でしょうか。左奥は細長い台座の上に仏様がおわしまして、おそらく三界万霊塔か何かと思われますが台座の竿が植物に隠れていて文字が読み取れませんでした。

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青面金剛6臂、2猿、2鶏、邪鬼、ショケラ

 折れた痕が痛々しく彫りの浅い部分はだんだん分かりにくくなってきていますが、主尊のお顔だけはひときわよく残っています。頭部のみ異様に厚肉彫りになっておりまして、しかも頭頂部は塔身よりも上にはみ出すように表現されています。このような造形の庚申塔は見た覚えがありません。さても風変りな塔でございます。猿と鶏の配置も特徴的で、猿は向かって左側、鶏は向かって右側に偏っています。2匹の猿はまるで鶏を挑発するような姿勢で、鶏は鶏で長い脚をくの字に曲げて上体を起こして猿を威嚇しているかのように見えてまいりまして、なんともおもしろく感じました。型にはまらない表現の工夫が素晴らしいと思います。

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猿田彦大神

 猿の字が風変りで、旁の部分が「土」と「衣」を上下に重ねた字体になっております。嘉永三年の銘があります。この辺りは、平成初期まではまだまだ田舎の雰囲気が残っておりましたが、「ホワイトロード」の開通と大型商店の進出により様相が一変しました。江戸時代にはどのような風景が広がっていたのでしょう。

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 右はかなり大きな一字一石塔です。隠れていますがおそらく「大乗妙典」と刻まれているのでしょう。左は千手観音様で、厚肉に彫った体の横に線彫りでたくさんの腕が並行に表現されているタイプの像です。

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 露の石造物の中でも最も目を引くのが、こちらの石幢でございます。棹も龕部も笠も全てが六角形をなしています。保存状態は頗る良好、龕部の六地蔵様も完璧な姿で残っております。この裏手には小さな墓原があります。お墓の入口の六地蔵様は、国東半島ではお地蔵様6体を横並びに安置してあるか、または横長の石板に六体横並びに陽刻してあるのをよく見かけます。それが、こちらでは石幢になっているというわけです。

 

8 宮地の庚申塔

 露の石造物を後に、道なりに橋を渡りまして国道442号バイパス道路との交叉点も直進します。突き当ったら左折して、右に家並みを見ながら進みます。ちょっと不安になる道幅ですが普通車までなら通れます(徐々に拡幅工事が進んでいるようです)。道路右側に「浅草神社」の看板があるところを右折して背戸を少し上がりますと、浅草神社参道下に庚申塔が並んでいます。

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 正面が浅草神社の鳥居、左に並んでいるのが庚申塔です。このまま右の車道を上がって浅草神社の境内の隅に駐車させていただき、先に神社にお参りをしてから参道を歩いて戻って来るとよいと思います。または、天気がよい日であれば七瀬川自然公園に駐車して、歩いて高瀬石仏や日枝神社、八鉾社、露の石造物と巡りながらこちらの庚申塔経由で浅草神社に上がり、反対側の参道を下って口戸磨崖仏等に足を伸ばすのもほんに楽しいことでしょう。

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 向かって左から刻像塔(一面六臂青面金剛)、文字塔(庚申塔)、刻像塔、文字塔(読み取り困難)です。左端の刻像塔は傷みが激しく、主尊の体と腕以外は分かりづらくなっています。右から2番目の刻像塔を詳しく見てみましょう。

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青面金剛4臂、3猿

 風化摩滅が進み、ほとんどシルエットしか分からなくなっているのが残念です。主尊のお顔もさっぱり分かりませんが、かすかに残った目が何となく不気味な雰囲気でございます。もしかしたら鶏も刻まれていたのかもしれませんが、その痕跡は分かりませんでした。あっと驚きましたのは、お賽銭の数です。硬貨がずいぶんたくさん積み上げられています。近隣の方がお参りをされるのでしょう。よし傷みが進んだとて今なお信仰が続いていることが分かり、嬉しくなりました。浅草神社への参道脇にあって、人目に付きやすい庚申様であります。これからも近隣地域を守ってくださることと思います。

 

9 浅草神社

 宮地の庚申塔から浅草神社に上がります。先ほど申しましたように、車で訪れた場合には参道入口に駐車場所がありませんので、右側の車道(普通車までならどうにか上がれます)から車で上がって境内の隅に駐車させていただくとよいでしょう。

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 宮地の庚申塔の向かい側の石造物です。「浅草宮御供(水?)」とあります(草は異体字)。この場所に井戸か何かがあったのでしょうか?

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 竹林の中の石段を上がると、杉木立の中の気持ちよい道になります(写真は境内から振り返って撮影したものです)。

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 参道から境内に入る手前、右側にこのような祠と石灯籠がありました。お供えが上がっています。

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浅草神社

 境内はきれいに掃除され、麓の喧騒とは無縁の静かな場所です。樹木に囲まれたほんに気持ちのよいところでございます。左奥には摂社があります。

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 細かい装飾が見事な、立派な灯籠です。ずいぶん細身で、なんとも据わりの悪そうな造りでありますが傷みはほとんどありません。

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 狛犬もなかなかのものではありませんか。

 お参りをしたら、いま通って来た参道とは別の方向にも参道が伸びていますので、少しそちらの方に進んでみてください。日露戦争の記念碑が2基立っています。

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碑文を起こします。

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(上部・右から)
戦捷記念
(碑文)
世界ノ戦史及国史ニ不滅ノ光彩を放テル日露戦役モ今ヤ終局告ケ出征ノ将士相踵テ凱旋ス茲ニ松杉数株ヲ植ヱ以テ紀念トス
明治三十八年十二月
   内稙田報恩寺中

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※相踵で=相次いで  茲に=ここに

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碑文を起こします。

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明治三拾七年二月露国ニ向テ宣戦ヲ布ス我カ陸海軍ハ千古未曾有ノ大勝ヲ得米国中間ニ立三拾八年九月平和ノ局ニ結故ニ永久紀念左記頭書ノ樹木ヲ植
明治三十八年九月
 平野 杉二本 佐藤平治
    楠二本 仝 勝吉

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 記念の松、杉、楠がどの木なのかは分かりませんでした。もしかしたらもう残っていないのかもしれません。

 

10 下宗方の石造物

 大字下宗方は田んぼと七瀬川に囲まれた地域です。高速道路の開通により高架橋が横切り景観が一変しましたが、それ意外は昔ながらの風情がよう残っておりまして、稙田地区のうち平野部としては珍しい地域であります。部落内を通る道路は昔の道筋のままに折れ曲がっており、その辻々に庚申様や石幢など数々の石造物が多く見られます。稙田地区におきましては、道路端のこのような石造物は堂様や墓地、神社等に移されているのがほとんどでありますものを、下宗方は例外的に石造物がたくさん道路端に残っていのです。

 部落名や小字名を存じ上げませんので、「下宗方の石造物」としてまとめて紹介いたします。下宗方へはローソン田尻店の横の道を入って、橋を渡っていくのが分かりやすいと思います。一つひとつの所在地の詳しい説明は省きます。適当に進めば、次から次に石造物が見つかることでしょう。

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 こちらの石幢は、下宗方で見かけた中でも特に大型のものです。八角形のもので、大きな笠に対して龕部は小さめのような気がします。笠塔婆や、奥の方にもいろいろな石造物が並んでいました。今は小さな公園になっていますが、おそらく昔はこの場所に堂様か何かがあったのでしょう。

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 水色のおちょうちょがほんに可愛らしいではありませんか。地域内の道路端にあって、みなさんのお参りがあるのでしょう。手入れが行き届いており、大事にされていることが伺えました。

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(左端)青面金剛6臂、ショケラ

 塔身には一部欠けがございますが幸いにも主尊は傷んでおらず、良好な状態を維持しています。衣紋を中心に、黒い彩色がよう残っておりました。どっしりとした印象の塔で、この辻の交通安全を今も見守ってくださっています。

 下宗方では、このように民家の塀の端に一区画を設けて石造物をお祀りしているのを何か所かで見かけました。これは、元々は道路端にあったものを、自動車の通行の障りになる等で動かしたのでしょう。粗末にならないように鄭重にお祀りされています。

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 中央はお不動さんです。さても勇ましげな立ち姿にて、やや薄暗いところでもひときわ目立ちます。細かいところまで丁寧に彫り込んだ秀作でございます。近隣の信仰も絶大であるようで、お供えがたくさんあがっていました。

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 こちらの石幢は龕部の傷みが著しく、諸像の姿はほとんど分からなくなっています。笠をつっかい棒で支えている状態です。左端は庚申塔(文字)です。

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 お弘法様と思われます。よう似た形の御室が方々に残っています(下宗方以外にも、上宗方や上芹など近隣地域一帯で見られます)。稙田地区も、まだ昔のようにお接待をしているのでしょうか。

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 石幢は、竿がずいぶん寸詰まりになっています。縦長の立派な龕部の様子から推して、本来はもう少し背が高かったものと思われます。下部が傷んで、このような形に造り替えたのかもしれません。水色のおちょうちょの仏様がおさまっている御室には「奉納四国八十八箇所」と書いてあります。本物のお四国さんを終えた紀念のものかもしれません、そうであれば、村人のために、四国八十八箇所を巡拝するのと同じ霊験を期待して造立したのでしょう。または、近隣のあちこちにお弘法様がございますから、地域内で新四国をなしている可能性もあります。

 その向かって右隣りの碑には「百万遍寒行碑」とあります。百万遍の数珠繰りと何か関係があるのでしょうか。そして左端はお六部さんの案内碑で、下記の内容が刻まれています。

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八十番 讃岐国々分寺

タニヲワケ ノ山デ シノギ 寺々ヲ

マイレル人ヲ タスケマス

下宗方

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 愛読書『嶷北の文化財』によりますと、明治初期、釘宮体五郎さんと安二良さんの兄弟がこの石を建立したとのことです。この地域の方々のさても親切な人柄、厚い人情がよく表れているではありませんか。

 大字下宗方には、今回紹介した以外にもたくさんの石造物があるようです。グーグルマップを見るだけでも2つ3つ見つけることができました。またいつかゆっくり散策してみたい地域です。

 

今回は以上です。どこも簡単に訪れることができますので、興味関心のある方には探訪をお勧めいたします。可能であれば自転車や徒歩で廻りますと、小さな石造物や四季の風情など、車で廻る以上にいろいろな気付きがあると思います。稙田地区は名所旧跡が密集していますので、山間部の地域以外は車がなくても容易に探訪できます。