大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

合川の名所めぐり その3(清川村)

 久しぶりに、合川地区のシリーズを書きます。前回まで、白山地区の名所旧跡の記事を2本書きました。今回は白山の名所めぐり その2の末尾「11 白山社の大銀杏」を基点に、合川地区に入ります。県道45号・688号経由で白山地区・合川地区をひとまわりする探訪コースの一例として、白山シリーズからつなげて書いてみることにしました。ただ、隘路が続くので山道の運転に慣れていないと不安になるような道中です。必ずしも白山地区と同時にまわる必要はないので、適宜道順を工夫してください。

 

9 御嶽神社

 大白谷からの道順を先に記します。三重町大字大白谷、白山部落に鎮座まします白山社から、県道688号を清川方面に進みます。先行きが不安になるような道幅ですが、曲がりくねった急な上り坂のところから一応、中央線が復活します。峠に着いたら右折します(御嶽山の道標あり)。このあたりは清川村大字大白谷、中山部落です。家並みを抜けたところの二股を右にとれば、近郷部落経由で大字伏野に抜けられます(白山の名所めぐり その1で紹介した犬鳴の石塔群のところの道)。今回はこの二股を左にとって、御嶽林道を進みます。この道は「御嶽桜ロード」の愛称で親しまれており、道路沿いにたくさんの桜が植わっていますのでお花見ドライブができます。林道とはいえ、全線アスファルト舗装がなされておりガードレールもありますし、離合にも困りません。道なりに行けば左側に御嶽神社の鳥居があり、右側に駐車場があります。もし停められなかったら、もう少し進んだところの御嶽山自然公園に駐車するとよいでしょう。御嶽林道の桜や御嶽山自然公園はまたの機会に紹介します。

 さて、御嶽山は大字宇田枝(うたえだ)と左右知(そうち)の境界あたりで、山の頂には御嶽神社が鎮座しています。近隣在郷の信仰が篤いものの、林道の開通以前はそう易々と参拝できる神社ではありませんでした。今は鳥居のところまで車で登れますから、整備された参道をほんの15分かそこら歩くだけで参拝できます。

 説明板の内容を転記します。

~~~

御嶽神社と仙の嶽

 御嶽山は本村の観光のメッカで、その中心は御嶽神社である。神社の創建は古く、宝徳元年(1449)、大友十四代親隆公が島津氏(鹿児島)と日向(宮崎)で戦ったとき、行縢神社(延岡市)に戦勝祈願をし、凱旋の後、御嶽山頂に祭祀したものである。原生林の間のなだらかな石段(359段)を登ること10分、厳かな神殿に至る。
 祭神は国常立尊(土地の神)、彦火火出見命(山の神)、少彦名命(薬の神)の三柱である。また、勝負の神様として近郷の人々から信仰されている。大友氏滅亡後、岡藩主中川氏の祈願所五山のひとつとして厚い庇護を受けている。社殿は、天正13年(1585)、安政6年(1859)、大正6年(1915)の三度消失している。
 社殿の裏に標高568mの仙の嶽という岩山があり、一説にはこの岩山が御神体だといわれている。この山に向けて、八方鳥居が建てられていることからも立証できる。険しい岩肌には、土佐ミツバツツジが自生し、3月から4月には赤紫の鼻をつける。嶽上からは大野郡、竹田市直入郡が一望でき、晴天の際には別府湾まで眺望することができる。
 また、御嶽の原生林は縮小されているものの、中部・西南部日本のスダジイ群団の代表的なもので、熊本県市房山抜川神社林、阿蘇北向山国有林と並ぶ三大常緑広葉樹林のひとつである。

蝉時雨 木立の中の 社かな

追記 御嶽神社はこの看板と向き合う山の山頂に位置します。

~~~

 説明板の内容を転記します。

~~~

御嶽山

神が飛来したという海からやってきた岩
 御嶽山は、その山頂付近にお宮をもつ、御嶽神社御神体として知られてします。ご神体は、御嶽神社より50mほど登った山頂のことを指し「仙の嶽(岳)」と呼ばれていますが、その岩は実は海の底から迫り上がったものです。
 板状に重なった青や赤の色をした硬い石は、もともと放散虫という海洋プランクトンの死骸が深海で固まったもので、何億年という年数をかけて石となりました。その石は、プレート運動によって徐々に大陸に向かって移動し、押し付けられ迫り上がり、今では標高568mの山頂に姿を現すことになりました。

御嶽神楽

 宝徳元年(1449)に御嶽神社創建に際して執り行われたことが起原だといわれる神楽です。以来、この清川の地ではぐくまれ大分県中南部に伝播した大野系岩戸神楽の祖と言われています。

~~~

 鳥居をくぐって、参道を歩いていきます。竹の杖をたくさん用意してくださっていますので、必要であれば借りるとよいでしょう。石段には手すりも整備されていますし傾斜もきつくはないので、杖がなくても問題ないレベルです。

 はじめのうちは、このように木立を縫うていきます。説明板にもありましたように、貴重な原生林の中の道です。簡易的な舗装がなされているので楽に歩けます。

 このような石段が数回出て来ます。土留の石が少し斜めになるなど、経年の傷みはあります。でも段の緩みは、私が通行した限りでは感じられず、不安なく歩くことができました。手すりもあり、整備が行き届いています。たいへん気持ちのよい道で、神社の参道であることを忘れて思わず小唄など出そうなほどでした。

 10分程度でしょうか、のんびりと登ってきて上の鳥居に出ました。ここまで来ればあと少しです。道中、椿の木が何本かありましたので、花の時季は特によいでしょう。もちろん、花の時季以外もそれぞれのよさがあります。あまり暑すぎる時季や積雪のおそれのあるときをよけて、ぜひ登ってみてください。

 社殿に着きました。山の上なので境内はこじんまりとしています。お参りをしたら、狛犬を確認してみてください。やや胴長の個性的な姿が印象深うございます。足の爪や長い毛並などを丁寧に表現した秀作です。鼻の孔を吹き広げたいかめしい顔つきなのに、なんとなく親しみを覚えました。

 阿形の方がいくぶん怖い表情をしています。糸切り歯がよう目立ちます。毛並の先端の渦巻が通り一遍ではなく、右に左に巻き込む様子を丁寧に表現してあります。

社殿再建費寄附人名簿

 驚くほどたくさんの方が寄附をされています。合川地区をはじめ、牧口地区、新田地区、緒方地区など、広範囲の方々のお名前が記されていました。

 

10 仙の嶽

 御嶽神社に参拝の際は、仙の嶽まで足を伸ばすことをお勧めします。仙の嶽の上はまさしく眺望絶佳、それはもう見事な景観を一望できます。ただし途中に鎖場がありますので、強風や雨降りのときはやめておいた方がよいでしょう。

 御嶽神社の社殿左側から裏手に回り込むと、塀の切れたところがあります。ここが仙の嶽への道の入口です。先行きが不安になるような頼りない道ですが、距離は知れたものです。説明板の内容を転記します。

~~~

仙の岳

 神社東側約25mに切り立つ巨大な硅岩を仙の岳と申します。鉄鎖を伝って登りますと急に視界が啓けて、九重祖母の連山を一望に収め、また眼下には数十mの絶壁あり、この景観を是非ご賞覧ください。

~~~

 この立札には大切なことが書いてあります。

~~~

仙の嶽へ行かれる方へ

 この先は、神聖な場所とされています。感謝の気持ちを持って踏み入れましょう。また、岩場が続くため、足元に十分注意してください。

おおいた豊後大野ジオパーク推進協議会

~~~

 足元に気を付けるのは当たり前のことですが、あまりの見晴らしのよさに嬉しくなって、「神聖な場所とされています」ということをつい忘れてしまいがちです。地域の方の信仰の対象であるということを心に留めて行動したいものです。

 塀の切れたところから少し下って、すぐ登り返します。左は高い崖です。危険を感じるほどの場所ではありませんでしたが、地面が湿っているときは通らない方がよいでしょう。

 道なりに行けばすぐ岩場に着きます。鎖をしっかり持って三点支持を確保し、足のかけ場を間違わないようにして通過します。私は特に問題なく上り下りできましたが、人それぞれなので無理をしないようにしてください。落ちると大怪我をしそうな場所ですから、油断は禁物です。この鎖場さえクリアできれば、素晴らしい眺望を楽しむことができます。

 尾根筋を進めばもう一段高いところに登ることもできます。ただ、その手前が高い段差になっていて、そこには鎖がありませんでした。先ほどの鎖場を越えてすぐのところからでも十分に景観を楽しめますので、無理に上段に登らなくてもよいと思います。

 いかがですか。見渡す限り山また山なれど、仙の嶽よりも高い山は遥かに遠いので、その間の広大な土地の複雑な地形が一目です。きっと、夕焼けの時間帯はまた格別と思います。しかし薄暗くなってからあの鎖場を戻るのは危ないので、私にはこの場所で夕焼け空を見ることは困難です。午前中の曇り空が嘘のように晴れた青空の下で、夕焼けや星月夜、またいちめんの雪景色もさぞやなどと、私には見られそうもない景色をひとしきり想像して、おとなしくもと来た道を戻りました。

 

11 十祖の石造物

 今回は御嶽神社から、中山部落入口の辻(県道688号に突き当たるところ)まで元来た道を後戻り、右折して県道を下ります。ここから先は離合困難の隘路が長く続き、ガードレールのない場所も多いので注意を要します。平常時であれば、普通車までなら通行できます。しばらく下り、大字左右知は轟(とどろ)部落に入りますと中央線のある快適な道になります。道路右側に戦没者慰霊碑があり、その横にお弘法様や宝篋印塔などが寄せられた一角があります。道路端にて簡単にお参り・見学することができます。

 お弘法様の石祠が基、宝篋印塔、供養塔などが集められています。立派な基壇をこしらえ、しかも後列を一段高くするなど整備が行き届いており、お花もあがり、お世話が行き届いていることに感激しました。

 碑文の内容を転記します。

~~~

碑文

 歴史的文化遺産御大師様は、久保の前庭に鎮座、人々の厚い信仰を受けていた。木浦街道の変更新設にて明治24年4月、大乗妙典一字一石の基礎移転安置し、村中の理想的信仰を集めていましたが、里道が村道、また県道と編入されて道路の曲を直す拡幅工事の為に同番地1607へ昭和46年に移転安置するも、今般大規模林道開通工事の為に県土木課の再度の要請により通称十祖1576番地へ通称公園地の宝篋印塔と五輪塔を共に奉ることとし施工主清川産業株式会社代表取締役工藤隆治安置施工光徳石材主水の忠司氏に委任、平成14年12月吉日鎮座安置奉り村中の安寧と繁栄を祈願奉るものなり。
一如一念 佐藤實

そのかみの伝説を秘めし古塔建て
里は久遠に栄えぬるかな

~~~

 碑文によれば、この地に集められているお大師様や宝篋印塔、一字一石塔などは、もとは夫々別の場所にお祀りされていたことが分かります。やむを得ない移転とはいえ、こうして簡単にお参りできる場所に集められたのは結果的にはよかったのではないでしょうか。

 お弘法様の像自体は、方々で見かけるタイプの坐像です。お室は少しずつ異なり、特に中央は、屋根の傾斜がなだらかで破風も優美な感じがいたします。

 宝篋印塔は、塔身の四面に彫った梵字がよう残っています。笠の形状には、所謂「宇目型」の特徴が感じられました。先ほどの碑文にも「木浦街道」という文言がありましたとおり、梅津越経由で宇目方面との往来が盛んであったことが分かります。相輪の形状も風変りです。特に文化財指定はなされていないようですが、保存状態が良好で地域色豊かなお塔でありますから、興味関心のある方にはぜひとも見学をお勧めいたします。道路沿いなので簡単に見学できます。

 お隣は「萬霊供養塔」です。三界萬霊塔としては大型で、立派なものです。

大乗妙経一石一字

 一字一石塔も大型ですこぶる立派です。朱を入れた銘の字体がよいしバランスが絶妙です。五輪塔はやや風化摩滅が進んできています。水輪が饅頭型でどっしりとした感じがいたします。

 

12 轟の山神社

 お大師様をあとに県道を下れば、ほどなく右側に山神社が鎮座しています。道路端なのですぐ分かります。

 道路拡幅により敷地が削り取られたのでしょう。以前は、もう少し広かったと思われます。こ地らの神社は境内がこざっぱりとしていて、実に清々しい雰囲気です。鳥居の近くの枝が紅葉する頃は特によいと思います。お参りをしたら、境内にお祀りされている庚申様や地神塔を見学することをお勧めします。

 このように、杉の木のねきに石垣をついて基壇をこしらえ、立派にお祀りしてあります。カーブミラーの側に立つひときわ大きな塔が地神塔で、左側に寄り集まる小形の塔が庚申塔です。

享保十八
庚申尊
十二月吉日

 「庚」の字の上には梵字を彫ってあるように思います。しかしその部分が苔に覆われて、ほとんど見えなくなっています。それ以外は、碑面の荒れ様に比して銘の状態は比較的良好です。「庚申尊」という呼称には崇敬の念が感じられます。

青面金剛6臂

 清川村で初めて見つけた刻像塔です。残念ながら碑面の荒れが著しく、細かい部分はもう分からなくなっていました。主尊は御髪や三叉戟、宝珠、弓など要所々々に朱の痕跡があり、特に御髪の色はよう分かります。一見して4臂かなと思いましたが、どうも6臂のようです。右腕だけ見ますと2本のように見えますけれども、よう見ますと左腕は確実に3本あります(宝珠、弓、杓それぞれを別に持っています)。右腕も実際は3本あるものを、体前に回した腕が風化摩滅のために見えなくなっているのでしょう。

 それにしても、この主尊の表現は腕の形、お顔の大きさ、武器のちぐはぐな感じなど、自由奔放を極めます。型にはまらない、いきいきとした表現がおもしろいではありませんか。こんなに傷みが進む前に拝見したかったものです。風化のため紀年銘も読み取り困難です。

文政十年丁亥年 待人
奉待申田彦大神
四月十五日   六人

 この塔で興味深いのは、上部の大きな円形の窪みです。地衣類の侵蝕により見えづらいものの、朱の痕跡が見てとれます。このように大きい円が1つ、「青面金剛」とか「奉待庚申塔」などの銘の上に来ている場合はその円の中に梵字を彫ってある場合が多々あります。ただ、現状では全く分かりません。もし梵字が彫ってある(乃至書いてある)としたら、猿田彦庚申塔としては珍しい事例であると存じます。

 また、猿田彦に「奉待」が付くのも珍しいのではないでしょうか。「猿田彦」を「申田彦」とする表記はときどき見かけます。紀年銘の下部に、2行に分けて「待人六人」と彫ってあります。これは「講中六人」と同義と思われます。この「待人」という言い回しは、初めて見たような気がします。

地神

 大野地方で石幢と同じくらいよう見かけるのが、地神塔です。地神塔は、国東半島ではあまり見た覚えがありません(同種の信仰を持つものとして社日塔はときどき見かけますが)。県内では、大野地方のほか南海部地方の山間部で盛んに見かけます。その中でも緒方町清川村の地神塔は、特に立派なものが多いように思います。

 

今回は以上です。次回はこの続きを書きます。

過去の記事はこちらから