大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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日田の名所めぐり その1(日田市)

 このシリーズでは日田地区(旧日田町)の名所をめぐります。日田地区は日田地方(旧日田郡)の中心市街で、大きく豆田地区(旧大字豆田・北豆田・南豆田 ※)と隈地区(旧大字隈・庄手・竹田 ※)に分かれます。明治以降の歴史を申しますと、明治22年日田郡豆田町・隈町が成立し、明治34年に両者が合併して日田町が発足しました。昭和15年には高瀬村・三芳村・西有田村・三花村・光岡村・朝日村と合併して市制を施行し、昭和30年に東有田村・小野村・大鶴村・夜明村・五和村を編入して日田盆地全域がひとつの市になりました。

※豆田地区・隈地区ともに住居表示済の地域が各大字から抜けているほか、大字の残部でも通称町名が使用されていますので大字地名はほとんど使われていません。それで便宜的に「旧大字」と表記しました。

 この地域の名所としましては、その筆頭には豆田と隈の旧市街が挙げられましょう。昔の面影を色濃く残す町並みには歴史的な建造物が数多く、一日遊ぶことができます。ほかにも亀山(きざん)公園(日隈山)、三隈川の簗場、慈眼山(じげんざん)公園、月隈山など枚挙に暇がありません。まったく、どちらに進んでも名所だらけでございます。しかも、いま申しましたような著名な観光地以外にも歴史のあるお寺や神社、堂様などが点在し、その坪などに宝篋印塔をはじめとする石造文化財が種々残っています。日田に遊ぶ際には街並み散策だけでなく、個々の興味関心に応じて慈眼山公園や月隈山、亀山公園などのほか、周縁部の吹上観音、大原さん、皿山、竜体山公園、石坂の石畳、ガランドヤ古墳などを探訪ルートに組み入れますと、より楽しい一日になることでしょう。できれば1泊されますと時間に余裕をもってたくさん巡れますし、時季によっては底霧や夕暮れの風景など、時間帯ごとの景勝をも楽しむことができます。

 さて、このシリーズの初回は慈眼山公園(豆田地区)を紹介します。ここは観光客の姿をあまり見かけませんが、日田市街ではいちおしの名所です。特に宝篋印塔は、ぜひ見学をお勧めいたします。

 

1 慈眼山河川公園の石仏群

 日田インターを出て左折、左にエネオス給油所のある交叉点を右折します。道なりに花月川(はなつきがわ ※)を渡りすぐさま左折、川べりの道を入ったところが河川公園です。邪魔にならないように車を停めたら、慈眼山公園に上る前に横穴群の仏様に参拝することをお勧めします。一旦川べりの道を奥の方に歩いていき、崖下の小道を戻りつつ巡拝するとよいでしょう。

※「かげつがわ」の呼称も通用していますが、地名「花月(はなつき)」に由来する河川名ですから本来は「はなつき」でしょう。三隈川や庄手川(しょうでがわ)と同様に、水郷日田を形成する河川であり、風雅なる呼称に似つかわしい風光明媚な景観を形成しています。

 この辺りから慈眼山の崖下に近寄れば、小道がありますのですぐ分かります。

 こちらが、崖下の石仏群の奥詰めです。涅槃像の前から、急勾配の細道が崖上へとのびています。これを登れば、上にも仏様がお祀りされているのでしょうか?または、慈眼山は山城の址にて、その関係の通路かもしれません。当日は雨上がりで危なそうでしたから、先がどうなっているのか確認しませんでした。

 いつ頃のものか存じませんが、石仏としては珍しい造形であると存じます。涅槃像と石棺型は一石造のようです。矩形の龕は、それに合わせてこしらえたものでしょう。横穴墓や防空壕としてこしらえたものではないと思います。

 深く彫り込んだ蓮台は花弁のふちをくっきりと表し、そこから上部の坐像に違和感なく接続されています。台座に「○○菩薩」と彫ってあります。○○が読み取れず、不勉強で像容から仏様の種類を判別することができませんでした。さても優美なるお姿で、光輪と舟形の余白には細やかな文様にて、見事に後光を表現してあります。

 岩の割れ目にこしらえた龕に収まっているのは大日様です。こちらも立体的な彫りが素晴らしい。「第二十八番大日如来」と彫ってあります。蓋し、新四国の札所でしょう。慈眼山公園(崖上)に多数お祀りされている石仏群も一連のものと思われます。下段にはたくさんのお地蔵様やお観音様などが並んでいます。よそから移されたものもあると思います。頭部が破損した像が多く、おいたわしいことでございます。

 左はお弘法様でしょうか。こちらも、新四国に関係があるものと思われます。

 対の仏様が寄り添うて、じっと佇んでいます。右の仏様は傷みがひどく、左の仏様にそっと寄りかかっています。立地が崖下にて致し方ないところもあるとは存じますが、この一帯はやや荒れ気味なのが残念です。椿の花が落ちているのを見て、〽お山のお山の尼寺に 尼寺に 赤い椿が散ったとさ…の唄を思い出しました。

 中央はお不動様でしょう。3つに折れてしまい、一応元の通りに組み合わせてありますが継ぎ目がずれています。たいへん細やかな彫りで丁寧に表現されています。その後ろには菱形の龕が確認できました。お不動様は、よそから移されたのかもしません。右隣りには仏様の頭部のみが石の上に安置されています。左の矩形の龕にも頭部のみ。破損した仏像が粗末にならないようにとの思いから、このようにされたのでしょう。

 石を詰めて封鎖した穴が3つ続きます。入口が二重の彫り込みになっていることから、横穴墓ではあるまいかと推察いたしました。防空壕であれば、このように装飾的な彫り方はしないはずです。

 こちらが入口に最も近い龕で、横長で彫り込みが浅く、今までの龕とは趣を異にします。たくさんの仏様が横並びで、台座は「文殊菩薩」「毘沙門天」などの文言が確認できました。傷みがひどく、その文言を見なければ判別が困難になっています。

 崖下の仏様は以上です。

 

○ 新民謡「日田小唄」

 日田の唄の中から、慈眼山が唄い込まれている新民謡を紹介します。この小唄は知名度こそ今ひとつですけれども、のんびりとした節回しがよいし、文句も日田の景物や事蹟をたくさん入っており、よい唄です。レコード化はされていないと思います。

〽響く瀬音に夜はほのぼのと 明ける桜の日隈山
 憩う鵜の面かがりに映えて 遠く河鹿の鳴く声か
〽霧の晴れゆく三隈の川を 流す筏の棹さばき
 英彦しぐるる由布岳曇る 暮れの鐘撞く慈眼山
〽名さえ懐かし花月川の 渡る渡里の発句の家
 お武家姿も暖簾をくぐる 掛屋広瀬の夏座敷
〽月は真ん丸代官様の 城の中空雁渡る
 宜園育ちも早や三歳越 窓は落ち葉の音ばかり

 

2 慈眼山公園

 河川公園に車を置いたまま前の道路に出て左に折れ、少し行けば左側に参道があります。近いのですぐ分かります。参道の下には適当な駐車場所がありません。

 説明板の内容を転記します。

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慈眼山公園

ここ慈眼山は、日田の三望郷(慈眼山・吹上・鏡坂)の一つといわれた景勝地です。平安時代から室町時代に郡司大蔵氏一族がおさめ、この地を別名、大蔵古城(鷹城)ともいい、園内にある仏像収蔵庫には木造十一面観音立像、木造四天王立像(4躰)、毘沙門天立像(3躰)、いずれも国の重要文化財に指定された仏像が収蔵されています。
また、公園内には日田の名代官 塩谷大四郎の碑や芭蕉句碑桜塚もあります。

日田市

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大乗妙典一字一石書寫寶塔

 一字一石塔の名で「書写宝塔」という言い回しははじめて見ました。また、塔の形状自体も一字一石塔としては珍しいと思います。

阿弥陀如来

 阿弥陀様の立像は蓮台も立派で、衣紋のしわなども丁寧に表現されています。お慈悲の表情にて、ほんにありがたい感じがいたしました。その前から奥にかけて、諸々の仏様がずらりと並んでおり、いずれも立派にお祀りされています。先ほどの、崖下の仏様と関係があるのかもしれません。

 反対側にも仏様が並んでいます。頭部の破損した仏様の台座の棹には、宝暦年間の銘がありました。

 さて、お参りをしたら参道を道なりに進みます。石段は蹴上が低く、手すりもありますので安全に通行できました。

 上り詰めたところから左に折れて進みます。永興寺(ようこうじ)に由来するものか、または鷹城の所以か分かりませんけれども、それはもう見事な石垣です。この石垣の半ばに、小さな仏様(おそらくお弘法様)がお祀りされています。写真にうつっていますので、さがしてみてください。

 仏様は四番札所です。よう見ますと蓮台とその上は別石にて、嵌め込むようにして接合されています。その後ろのおもしろい形の碑が、芭蕉の句碑です。

木のも登に汁母膾も佐久良可那

 このように彫ってありました。「木のもとに汁も膾も桜かな」です。これは、桜の下にゴザを延べてお花見をしていて、お皿やお椀にも花びらが散りかかった様子を詠んでいます。その瞬間を切り取った表現ながら、花が散る様子、もっと言うと季節の移ろいという時間の経過をも内包している点に、非凡なる閃きが感じられるではありませんか。とても好きな句です。ちょっと訪ねるのが早くて、桜の時季ではなかったのが残念に感じました。満開になる頃は、それはそれは風情のある場所でしょう。

南無妙法蓮華経

 流麗なる字体で彫ってあります。

 立派な御室は戸が開いています。中の仏様は三面です。右端には台座のみ残り「十番」「七番」です。上に乗っていた仏様は分離して、別に安置されているのでしょう。近隣で倒れていたものを、こちらに下ろしたのかもしれません。

 細部まで丁寧な表現ながら、胴長短足の体型や表情などに珍妙な雰囲気を漂わせる、たいへん親しみの湧く仏様です。大正14年の造立で、100年ほどもこの場所から麓の街を見守ってこられました。少し回り込んだところですから、見落とさないように気を付けてください。

 鐘楼の鐘は、自由に撞いてよいそうです。もちろん時間帯や回数などは常識の範囲内でといったところでしょう。野口雨情の作による「日田の底霧 古典の絵巻 鐘のひびきも慈眼山」という唄があります。現地に歌碑はありませんが、この文句を思い出しました。

 ここで、冒頭の写真の碑の内容を転記しておきます。

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鐘堂   廣瀬淡窓

日永く鐘堂は静かなり
篆盤の烟は繞紆
一僧の眉 雪に似たり
屨を捆じて團蒲に坐す

春の日ながの季節で鐘つき堂は静まりかえっており香をたく盤の烟だけがゆるやかにまがりくねってのぼっている
眉が雪のように白くなった一人の老僧が円い敷物にすわって藁をしめながら履きものを作っているだけである

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 鐘に記されている文言を転記します。

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慈眼山梵鐘鋳造献納の趣意
昭和四十七年三月

慈眼山の鐘が第二次大戦に徴用を受け 鳴りをしづめて弐拾有余年 大蔵卿眠る日田文化発祥の地 此所慈眼の山頂に 由緒深き鐘再び永く響かせてはとの 地元城町二丁目梵鐘献納委員会の悲願を叶はす可く 日隈校区関係自治会長発起人となり 各町内御有志の浄財を蒐め 本日茲に梵鐘鋳造献納に至りたる所以を銘記するものなり

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八人塚

 火袋の装飾、重厚感のある笠など、なかなかのものです。由来は存じませんが棹にお名前を彫ってある8人の方の供養塔でしょう。

 この一角には、札所めぐりの仏様(台座に番号が振ってあります)や六地蔵様の残欠、立派な三層塔などがたくさん寄せられています。破損している像が多く、残念に思いました。廃仏毀釈等の影響かもしれません。右隣りには、文化財の仏像を収めた収蔵庫が建っています。拝観するには1週間以上前に予約が必要とのことで、それを知らなかったので当日の拝観は叶いませんでした。

 ここから山手に通路が伸びています。鐘楼のところからも通路があって、どちらを上ってもすぐ合流します。行きと帰りで別の道を通るとよいでしょう。

 左は8臂、右は10臂の仏様で、いずれもたいへん細やかな彫りが見事なものです。しかも保存状態がすこぶる良好で、この立地にあっては奇跡的ではないでしょうか。右は断裂の痕がありますけれども、接合部が全く違和感なく修復されています。「つの国」つまり摂津の国ですから、西国三十三所の写し霊場でしょう。

 少し上ったところには、台座が横並びにて、上の仏様は全部後ろ側に倒してありました。不安定になったので、転落による破損を懼れてそのようにしたのではないでしょうか。残念ながら仏様が埋もれ気味になっています。「丹後」や「近江」などの地名が読み取れました。

 このすぐ上には立派な宝篋印塔が立っています。これまでにも数回出てきた、豪潮律師によるお塔で、それはもう見事な造りです。鐘楼までで折り返さず、ほんのわずかな距離ですからぜひ宝篋印塔までは上ってみてください。

 国東半島などで見かける宝篋印塔とは様相を異にしています。塔身が2階建てになっており、ほっそりと華奢なフォルムや、隅飾りが大きく外に発達した特徴から、一見して江戸時代を下らないものであろうと推察しました。くっきりと彫り込んだ梵字の堂々たる字体、複雑な形状の花弁を並べた蓮台、露盤の文様など、何から何まで行き届いた秀作で、しかもすこぶる大型です。これは素晴らしい!相輪から上が破損しているのが惜しまれますけれども、それ以外は完璧な状態を保っています。

 こちらが正面です。下段の塔身の梵字が、ほんに堂々たる風格を醸し出しているではありませんか。松かさは、私が置いたのではありません。もしかしたら遊びに来たどこかの子供がお供えのつもりで並べたのかなと思いまして、なんとも微笑ましく感じました。

 それにしても、これほど立派なお塔なのに公園入口の説明板では一切言及されていないのが残念です。大分県で、石仏・石塔と申しますと、一般には国東半島や大野地方を思い浮かべることでしょう。日田方面は、そのようなイメージは薄いと思います。それは、単に有名でないだけです。もちろん数的には、国東半島や大野方面、また南海部方面の山間部ほど多くはないものの、この地域にも見るべき石造文化財はたくさんあります。

 木立の中の、気持ちのよい道が続いています。少し歩けば前方に塩谷(しおのや)さんの碑が見えてきます。

財團法人中央強化團體聯合會指定
強化史蹟 塩谷正義公之碑

 説明板の内容を転記します。

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郡代塩谷の碑

 塩谷大四郎正義は文化13年 日田代官となり、翌年着任した。のち西国筋郡代に昇格し、10年にわたって日田の治政に任じた。
 この間、支配下の富豪らに命じて、井路掘削・新田開発・道路改修・備蓄倉や養育田の設置などの福利民生の事業をすすめ、民心教化にも熱心にあたる等、善政を布いた。
 天保6年 江戸は帰り、翌7年に病没したが、かねて「わが魂は隈豆田のあたりに留まるであろう」と語っていた。
 日田の人々は遺徳を偲んで、嘉永2年 慈眼山のこの地に碑を建立し、その歯を埋めて公を追慕した。正面に「故府尹塩谷君之碑」。3面の広瀬淡窓の撰文はよく公の人物をつたえて情理を尽くしている。書は安楽寺の僧信全。

日田市教育委員会

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故府尹鹽谷君之碑

 御幣が上がり、シメもかけてあり、神様のごとく鄭重にお祀りされています。

 ここからさらに奥まで道が続いていますが、時間の関係で先までは行かず引き返しました。

 脇道にそれたところの谷筋を越した先に、仏様が確認できました。崖下の仏様と一連のものでしょう。足場が悪かったので近づきませんでした。

 帰り道に、宝篋印塔の少し下で見かけた薬師様です。特に大型で、蓮台がたいへん豪勢な感じがいたします。薬師様の信仰はどこの地域でも絶大であったようです。

 

今回は以上です。あまり日田の記事が続いたので、次回は朝日地区(別府市)の記事を書きます。少し間を空けて、このシリーズの続きに戻る予定です。

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