大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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白山の名所めぐり その2(三重町)

 今回は大字中津留・大白谷の一部をめぐります。適当な写真がないところが多く、かいつまんでの紹介になります。飛ばしたところは、またいつか再訪でき次第、補足していきます。

 

7 中津留の石造物(白泉寺跡入口)

 前回の末尾にて紹介したほげ岩をあとに、県道45号を南下します。ほどなく右側に黒瀬の景という景勝地があります。これは白山渓谷の景勝のひとつで、川が屈曲したところで柱状節理が発達しています。適当な写真がないので今回は省きます。

 黒瀬の景を過ぎて右側に堰を見送ってほどなく、二股になっています。この二股を左折して左前方に進みますと、道路端に石幢と供養塔が立っています。白泉寺跡地への入口にあたり、現在お寺跡には納骨堂が建っています。ここは中津留部落のうちです。

 

 この石幢は全ての部材の断面が矩形で、大野地方でよう見かける形状です。宝珠の欠損が惜しまれますほか、全体的に風化摩滅が目立ちます。笠は中台よりも小さいのではないでしょうか。内刳りが浅いので、龕部が大きく露出しています。それがために、龕部の傷みも進み易かったのではないかと推察いたします。龕部の像は1面あて2体ずつで、六地蔵様と二王様です。夫々、細部は分からなくなっていますけれども、六地蔵様と二王様の違いは今のところはっきりと分かります。

 特筆すべきは、幢身の四面に彫ってある梵字です。めいめいの下部には蓮の花も彫ってあります。銘文は読み取れませんでしたが、文化財に指定されているので幸いにも豊後大野市による説明でその内容を知ることができました。永正12年に、白山地区を領有していた衛藤氏の一族である藤原家通が、地蔵信仰を領内に広めるため造立したものとのことです。

大乗妙典●●●塔

 地衣類の侵蝕で、読み取れない字がありました。一字一石塔でしょう。側面には紀年銘が彫ってあり、それによれば延享元年の造立です。

 

8 中津留の石造物(県道脇)

 白泉寺跡入口の石造物から県道に戻って先へと進みます。ほどなく右側に稲積水中鍾乳洞があります。この地域を訪れたからにはぜひ探勝をお勧めしたい奇勝中の奇勝です。写真がよくないので今回は飛ばします。鍾乳洞入口を過ぎたら道幅が狭まり、中央線がなくなります。ほどなく、左カーブの半ば、左側の小高いところに庚申塔、石仏、四国八十八所供養塔が並んでいます。道路端ですけれども、見落とし易いと思います。

 項目名は、細かい地名が分からなかったので部落名をとって「中津留の石造物」として、区別のために「県道わき」と付記しました。

 中央の仏様は、そばに四国八十八所の供養塔が立っていることから、お弘法様ではあるまいかと推量しました。道路から高いところに、大岩を横倒しに重ねた上にお祀りされています。前には花立てもあります。この立地ですのでどうしても枯葉や枝が散乱しがちですけれども、信仰が続いているのでしょう。

天明元辛丑
奉待庚申塔
九月●●日

 白山地区で最初に見つけた庚申塔です。上の三角になっているところの下に横線を彫り、板碑型になっています。額部には円形の枠の中に梵字を彫り込んであります。下部には「五平治」などのお名前が彫ってあり、上下2段で3名ずつ、計6名のようです。ただ、そのうち左上は「同名」となっていました。よし同じお名前であろうとてこんな書き方をするのかなと思いまして、或いは下段が3名のお名前であり、上段はめいめいの屋号か何かの可能性もあります。

 右後ろに倒れているのも庚申塔のようですが銘は読み取れません。

奉納四国八十八所納経塔
天明八戊申年正月廿一日 施主(以下略)

 施主のお名前が読み取れる角度での写真を撮り忘れてしまいました。造立日は、天明8年の1月21日です。21日はお弘法様の縁日なので、この日を選んだのでしょう。昔、庶民が自由に移動できなかった時代でも、お四国さんやお伊勢参りなどであれば許されていたようです。しかし、豊後の国と伊予の国は瀬戸を隔ての筋向いとはいえ、この奥山から浦辺に出るだけでも往生したものを、まして四国に渡りて八十八所を廻るというのは費用、体力面など多大なる困難を伴い、実現は甚だ困難であったことでしょう。代参講を組織すればとて、実際にお参りに行けるのはほんの数人です。このお塔は、お遍路さんに出るのが困難であった中津留村の人達にもそのお蔭あれかしと願うて造立されたものと考えられます。

 

○ 白山地区の盆踊りについて

 白山地区は、大野地方の中では志賀(朝地町)や津留(大野町)、原尻(緒方町)に比肩する「踊りどころ」として知られています。演目は、かつては「扇子踊り(三重節)」「八百屋」「杵築踊り」「祭文(はんかち踊り)」「エイガサー」「猿丸太夫」「三勝」「二つ拍子」など13種類もありました。昔は部落ごとに供養通りをしていましたが人口の減少が著しく、今は地域全体で盆踊り保存会を組織して地域のイベントなどで踊っています。数年前に行った「ほたる祭り」では、「扇子踊り」「祭文」「二つ拍子」を踊っていました。以前、テレビ番組「ポツンと一軒家」でこの地域が取り上げられたとき、地域の方が2人で「扇子踊り」と「祭文」を踊って見せてくれたのが放送されたので、ご覧になった方も多いと思います。

 たくさんの演目の中で、ところの名物は「扇子踊り」です。音頭は「三重節」で、他地域の三重節(三重町内他地域では「由来」と呼んでいます)よりものろまな節であり、しかも節の頭がちょっと違っていて細かい節回しをたくさん挿むので情趣に富んでいます。また、三重節の踊りは普通16足の佐伯踊りか団七踊り(3人組の棒踊り)であるのが相場ですが、当地域の踊り方は佐伯踊りとは全く異なります。扇子を高く構えて、津久見堅田の扇子の回し方とは反対回しにて、向こう側にクルリクルリと高速でさばいていく様がほんに優美で見事なものです。扇子は開きっぱなしで方向転換もなく、右回りの輪の向きのままで前に進んでは後戻るのを繰り返すばかりですけれども、あの扇子の回し方や後戻るときの身のこなしは、ちょっとやそっとの練習では様になりません。

 この地域の盆踊り唄をいくつか掲載しておきます。

「扇子踊り(三重節)」
〽ヤー 願うサー 一輪は 扇子でござる(セードッコイセー)
 ヤレー おせもサー 子供も皆出て踊れ(サーヤットソーレ ヨーヤソーレナ)

「八百屋」
〽扇エー めでたや末広がりよ(ヨイサヨーイヨイ)
 アーここに大内(ヨイコラサイサイ) 公卿大納言 エーイ公卿のサ
 娘にゃ玉津の姫と(アーヨイトセー ヨイヨナー)

「杵築踊り」
〽題は義経千本桜(サーヨイ サノヨイ)
 五題続きの第三段よ(サーヨーイサッサー ヨイサッサ)
〽角にゃ寿司屋と名は弥三衛門 これの娘におりつというて

「祭文」
〽国はエーナー どこかと尋ねてきけばヨー
 国はナ(イヤコラサイサイ) 豊州海部の郡
 (ソレー ヤートセーノ ヨイトマカセ)
〽佐伯領土はノ(ドッコイ) 堅田の谷よ
 堅田ナ(イヤコラサイサイ) 谷でも宇山は名所
 (ソレー ヤートセーノ ヨイトマカセ)

「二つ拍子(麦搗き)」
〽エヘヘー様は(ドッコイ) 三夜の(サーヨヤサノ ヨーイヨイ)
 三日月様の(サマーヨイヤナー)
 ヤレー宵に(ドッコイ) ちらりと(サーヨヤサノ ヨーイヨイ)
 ちらりと宵に(サマーヨイヤナー) 見たばかり
 (アリャセーノーヨ) ドッコイ(ヨーヤセーノーヨ) も一つ(ヨーヤセー)

 

9 久部の層塔

 中津留の庚申塔をあとに道なりに進めば右側に妙見橋という石造アーチ橋があります。適当な写真がないので飛ばします。妙見橋への分岐を過ぎると、「白山扇子踊りの里」の看板のある二股に出ます。直進は梅津越経由で小野市(宇目町)へ、右折すれば県道688号で、合川清川村)へとつながっています。どちらの道も途中より隘路になりますが、特に直進は利用度の低い道です。これを右折すればほどなく障子岩橋(石造アーチ)、白谷神社、雲見社があります。これらはまたの機会として、今回は直進します。道なりに小川を渡る手前を右折して狭い道に入り、少し行けば道路端に層塔が立っています(冒頭の写真)。ここは大字大白谷は久部(きゅうぶ)部落のうちです。

 この層塔は四重塔で、豊後大野市の説明によれば総高236cmもあります。その規模から本来は五重塔であったものの、部材が欠失し現在の構造になっているとのことです。すぐ横にこの塔の笠によう似た部材が置いてありますので、もしかしたら関係があるのかもしれません。全体としては立派な造りですけれども、笠の傷みのひどいのが惜しまれます。軸部の状態は比較的良好で、四面の梵字がよう残ります。紀年銘はないものの、南北朝時代から室町時代頃の造立と推定されているそうです。

 ここから先は道幅がさらに狭まり先行きが不安になりますが、普通車までならどうにか通れます。沈み橋を渡れば県道688号(先ほどの扇子踊りの看板のある三叉路を右折した先)に出ます。なお、この塔の付近には適当な駐車場所が全くありません。車で行くと、特に農繁期には地域の方の迷惑になるかもしれないので、ゆっくり見学したい場合は県道688号沿いの路肩の広いところに駐車して、沈み橋経由で歩いて行くとよいと思います。

 

10 久部の夫婦岩

 県道688号を進むと、久部部落の途中より極端に道幅が狭くなります。普通車までなら問題なく通れますけれども離合が困難の区間が少し続きます。その途中で、道路左側を流れる白山川の中ほどに大岩が倒れているのが見えます。これが夫婦岩です。以前は2つの大岩が屹立し注連縄を渡してあったものが、平成29年の大水で倒れてしまいました。ここでは平成27年に撮影した、破損前の夫婦岩の様子を紹介します。

 以前は、このように見事な姿でした。今ではこの景色は見られなくなりましたが、よし倒れたとて大岩は迫力阿ありますし、何より川の水の透明度が素晴らしいので、「夫婦岩」の看板のところから川原に下りてみることをお勧めします。ただし付近は道が狭くて駐車場所に困るのが難点です。

 大水で岩が倒れたあとに設置された説明板の内容を、読みやすいように少し改変して転記します。

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久部夫婦岩

 傾山の湧水を源流とする白山川(正式名称 中津無礼川)の名水に映える夫婦岩は、夏はホタル、秋はもみじと季節に合わせた衣装をまとい、白山川八景の景勝地として有名です。2つの岩が、夫婦が寄り添うように見えることから夫婦岩と呼ばれるようになったと云われています。夫婦岩は雄岩の高さ12m、雌岩の高さ8mで、チャートという石です。チャートはおよそ2億年前に放散虫などの微生物が深い海の底に堆積したもので、珪質の岩のひとつです。
 平成8年、白山川を守る会は、白山地区の美しい自然環境を残し、世に広めるために8つの景勝地を選定しました。そのひとつが久部夫婦岩です。そして地元有志による「夫婦岩を守る会」が結成され、周囲の環境整備と、新しい年を迎える年末には注連縄張りが行われるようになりました。今では白山川の守り神であり、夫婦円満や縁結びのシンボルとなっています。
 平成25年に豊後大野市日本ジオパークの認定を受け、白山川は「白山渓谷ジオサイト」に指定されました。全国名水百選に全国随一の自然河川として選ばれている白山川には、川底や川岸の大部分が9万年前の阿蘇溶結凝灰岩で、柱状節理を見ることができます。河原には白色の石灰岩や赤色のチャート、阿蘇溶結凝灰岩などが多数に転がっており、清流と岩肌が美しい河川環境を持っています。そして先人が苦労して造った石橋が地域内に10を超えるほどにあり、全国的に珍しい稲積水中鍾乳洞などジオパーク(大地の公園)にふさわしいものとなっています。
 平成29年9月17日には、台風18号による未曽有の大雨により、夫婦岩は以前の形より一層に寄り添うように倒れ、増水により地区内のあらゆる箇所の道路、大小の河川、石橋が壊れました。このような被害を蒙ったことは経験がないと、古老は倒れた夫婦岩をいつまでも見守っていました。

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 白山渓谷の柱状節理や、前回紹介した「ほげ岩」、また稲積水中鍾乳洞などの景勝地は、途方もない年月の間の自然の力で生じたものです。夫婦岩が倒れたのはつくづく残念ですけれども、自然環境というものは人為的な破壊がなくても、長い年月の間に変化していくものです。説明板にあるように「以前よりもいっそう寄り添うように」倒れたということで、景観が変わっても家内安全の象徴として、地域の方が大切にされている岩ですから、むやみに登ったりしない方がよいでしょう。

 

11 白山社の大銀杏

 夫婦岩をあとに、県道を進みます。大字大白谷は白山部落に入りますと道路右側に「傾山登山口」の看板があり、そのすぐ横にある神社が白山社です。境内が広々として気持ちがよいし、裏に回れば白山渓谷の清流を眺めることもできます。駐車場所は十分にあるので、参拝をお勧めします。

 この神社で特に素晴らしいのが、この大銀杏です。それはもう見事な枝ぶりです。白山渓谷はもみじの名所で、前回紹介した轟木橋のところなどあちこちで紅葉を楽しむことができます。中でもこちらの銀杏の素晴らしさは、頭一つ抜きん出ている感があります。もう少し秋も深まり、銀杏の葉がいちめんに散り敷く頃もそれはそれは雰囲気がよいので、ぜひ適当な時季に訪ねてみてください。

 この近隣には穴森権現様の自然林や、鹿落としの滝など自然景勝地に事欠きません。それらは気軽に行くことのできない場所ですけれども、この大銀杏と清流は道路端にて簡単に立ち寄ることができます。

 

○ 大白谷の田植唄

 白山渓谷の自然美について、記事中で何度も言及してきました。まことほんとに、白山地区は川と山の自然が素晴らしく、いちめんが景勝地です。でも、この地域の景観を形作っているのは山や川だけではありません。民家や田んぼ、畑といった農村風景と、山川の自然風景がよう馴染んでいるところに妙味があります。ここに、昔唄われていた田植唄と掲載しておきます。こういった唄は、マクリや手間替えにて総出で手植えをしていた時代のものであり、機械化の進んだ今では耳にすることはなくなりました。大白谷の田植唄は節が難しくてそう易々とは唄えないので、郷土の唄として伝承するのも容易なことではないと思います。

田植唄
〽祝いめでたで植え(ソレーソレ) たる稲はエイソーレ
 からが一丈で(ソレーソレ) 穂が五尺
 ハー 一丈でからがエイソーレ
 からが一丈で(ソレーソレ) 穂が五尺
〽腰の痛さにこの(ソレーソレ) 田の長さエイソーレ
 四月五月の(ソレーソレ) 日の長さ
 ハー 五月の四月エイソーレ
 四月五月の(ソレーソレ) 日の長さ

 

今回は以上です。次回からは合川地区の記事を書きます。大野地方の記事が長く続いているので、合川のシリーズを数回分進めたら国東半島の記事を久しぶりに書いてみようと考えているところです。

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