大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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都甲路を行く その7(豊後高田市)

屋山から並石ダムを望む

 久しぶりに「都甲路を行く」の続きを書きます。このシリーズはもう長いこと止まったままになっていました。写真のストックがありますので、今後も間隔を置きながらときどき記事にしていこうと思います。

 さて、ずっと前に、このシリーズの「その5」の16番で長安寺を紹介しています。そのとき、適当な写真が少なくて中途半端な内容になっていたので、今回の記事でその補足をしたいと思います。屋山部落周辺の石造物、それから長安寺、屋山城址と進んでいきます。今回の目玉は屋山城址です。眺望絶佳、しかも石造文化財も残っています。ハイキングがてら、春か秋の天気のよい日に登ってみてはいかがでしょうか?

 

22 屋山の縦道

 長安寺を訪れる際、上の駐車場(お寺のすぐそば)に停めると簡単ですが、天気がよくて時間があれば、ぜひ下の駐車場から歩いてみてください。石造物が点々と残っていますし、参道の坂道の両脇に石垣をついて段々になった屋敷の風景には、坊の面影が色濃く感じられます。

 県道29号、新城の厳島宮横から「長安寺」の看板を目印に脇道に折れて、ずっと道なりに上って行きますと変則十字路に出ます。その角には鳥居が立っています。小さい駐車場もありますので、車を停めることができます。
※もし上の駐車場まで車で行くときはこれを左折します。

 つい流し見で通り過ぎてしまいがちですけれども、鳥居(天保9年造立)やその横に立つ石柱を見学されることをお勧めします。五輪塔もあります。

奉寄進鳥居

 ごつごつとした笠のついた石柱は、鳥居の寄進を記念するものです。

夫力加勢
新城村 大畠五兵衛
梅木村 永松●三良
一畑村 河野廣助
長岩屋村 山口忠兵衛
 石工 大力邑
  鴦海信四郎
 氏子世話人

 屋山周辺の4か村(現行の大字)それぞれ1名のお名前を代表して彫ってあります。また、石工の鴦海さんは大力村の方ですが、これのみ「邑」の字を使用してあるのはどのような意図があるのでしょうか。

山王宮
太郎天童
六所宮

 六所宮は、長安寺の奥の院にあたる神社です。神仏分離以降、よその六所権現と同様に身濯神社に改称されています。中央にある「太郎天童」と申しますのは、太郎天の像が昔の子供の姿をしていることからこのように呼んだと思われます。太郎天は国東半島の山岳信仰において信仰が篤かったようです。この扁額を見ても、中央に記していることからその重要性や信仰の篤さが分かります。以前は身濯神社にお祀りされていた木造太郎天像は、今は収蔵庫に保管されています(拝観料の設定あり)。山王宮と申しますのは山王権現日枝神社のことで、これも長安寺の境内社なのでしょう。

 十字路を直進して正面参道(坊跡方面)に行く前に、少し左に行ってみてください。道路端に写真のような石造物がひっそりと残っています。どう見ても仏像ではなく、一見して俗人像のようにも見えますが、これは道祖神の類ではあるまいかと推量いたしました。双体道祖神と思しき石造物は、西国東地方の方々に点々と残っています。

 鳥居のすぐ左側には、2基の五輪塔を浮き彫りにした塔が残っています。基壇を4重にした立派な造りです。もしかしたら夫婦墓の類かもしれません。五輪塔を単体で浮き彫りにした塔や碑の類はときどき見かけますけれども、このように対の五輪塔を彫ったものは稀であると存じます。

 鳥居のところの辻から上っていきます。この道が長安寺の正面参道、通称「縦道」です。長安寺はかつてこの道の両脇に中ノ坊、北ノ坊、センズ坊、両子坊、奥ノ坊を、加礼川の各部落には峯坊、常泉坊(道脇寺)、下ノ坊、猪窟坊、西ノ坊、虚空蔵岩屋を有していたそうです。「縦道」両脇の坊跡は現在民家や空き地になっており、ところどころに石造物が残っています。

 このように、坂道に沿うて石垣を積み平場を段々にこしらえています。長安寺までの距離はそう遠くありません。

 予約制市民乗合タクシー(デマンドタクシー)の乗降場所がありました。路線バスやコミュニティバスの沿線はさておき、そうでない地域では、高齢の方をはじめとして自動車やバイクに乗れない方の日常の買い物や通院の困りが長年の課題です。乗合タクシーというのは一般のタクシーとは異なり、コミュニティバスと同様に買い物・通院等の困りを軽減するための事業のひとつとして、方々の市町村で実施されています。

 しばらく進むと、左側の小高いところに板碑型の墓碑などが数基並んでいます。こちらをオトさま板碑群と申します。もしかしたら「オトさま」は「お塔さま」ではあるまいかと推量しましたが、詳細は分かりません。

 この板碑のところが十字路になっており、左右の道を「不浄道」と申します。かつては不浄道を境に、これよりカサが長安寺の境内とされていました。昔は黒不浄、赤不浄などと申しまして、大雑把に言いますと喪中の家の人やお産をして一定の期間の経っていない人は、信仰を伴う地域の年中行事への参加や神社参拝を遠慮することになっている地域がほとんどでした。屋山では、「不浄道」よりもカサの屋敷の人は、お産をする際には下手にある産小屋でお産をしていました。産小屋は昭和36年を最後に使用されなくなり、平成3年の台風19号で倒壊したとのことです。

 縦道から少し横に入ったところで石祠を見かけました。ほかにも五輪塔や宝篋印塔の部材など、種々あるようです。

 

23 長安寺(その2)

 長安寺は、以前紹介しています。先に、以下のリンク先の16番をご覧ください。

oitameisho.hatenablog.com

 今回は、長安寺に残る4体の石造仁王像は省きまして、宝篋印塔など石塔類を中心に少し補足したいと思います。

 今年は石楠花の時季に参拝することができませんでした。きっと大勢の参拝者で賑おうたことでしょう。それはもう様々な種類の石楠花が斜面の一面の植栽されており、花の時季は桃源郷の風情があります。

 色もさまざまな石楠花ともみじが織り成す景観は、見ても見飽かぬものです。その日の天候によってもまるで雰囲気が異なりまして、晴天の日はもちろんのこと、薄曇りの日などもよいので、何度でも訪れたくなります。近隣在郷きっての名所中の名所といえましょう。

 花卉鑑賞の際、順路から外れて脇道に入り込まないしたいものです。道順が分かるように整備してくださっているので、特に分かりにくいような場所はないと思います。

 本堂左手には宝篋印塔や無宝塔などが並んでいます。写真には2基の宝篋印塔が写っていますが、このうち向かって左の塔には「宗仭公 天正十二年十一月十二日」の銘があります。これは都甲を治めた吉弘鎮信の7回忌の供養塔として造立されたものとのことです。細部まで保存状態がすこぶる良好です。ほっそりと長い相輪や、段々になったところなど細やかな彫りがすばらしく、格狭間や梵字の彫りなども何から何までよう整うています。

 右の塔は長安寺の豪円大和尚の供養のために造立されたものです。こちらは塔身がほっそりとしており、全体的に華奢な印象を受けました。正面を3区画に分かった格狭間は桝形になっています。

 この2基は、大型の塔のようには目立ちませんけれどもいずれ劣らぬ秀作ですから、参拝時にはぜひ見学をお勧めいたします。見落とさないように気を付けてください。

 身濯神社への参道脇には五輪塔などが並んでいる一角があります。破損したものが多いものの、一石造のものもあり、古式ゆかしい感じがいたします。

 林道を横切ってまっすぐ上り、左に折れれば正面に身濯神社が鎮座しています。

 参道右側には大型の国東塔が残っています。見落とすことはまずないでしょう。以前の記事でも紹介しましたが、写真がよくなかったので再度紹介します。

 さて、この国東塔は総高3.6mほどもある大型のものです。首部が目立ち、軒口が薄くゆるやかなカーブをとってへりを僅かに反らせてある点などに古式の面影が感じられます。銘はありませんが、鎌倉末期の造立と推定されているそうです。蓮台を見ますと、請花がなく反花のみです。そのため塔身の下部のすぼまりとの接合がほんになめらかで、反花の花びらの優美が際立っています。反花は非常に手の込んだ彫りであり、まったく見事というよりほかありません。格狭間の優美なる造形にも注目してください。

 講堂跡の辺りには、数基の石祠と並んで写真のような石造が安置されています。

 

24 屋山城址

 さて、いよいよ屋山城址を目指して登っていきましょう。長安寺境内から林道を歩いていきます。簡易舗装がなされていますし、それなりの道幅があります。傾斜もさほどではないので、のんびり歩くことができます。道なりにくねくねと進んでいけば見晴し台になったところに出ます。そこに鳥観図の看板が立っていますので、必ず目を通しておきましょう。

 内容を転記します。

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屋山城跡 鳥観図
(※ この看板の位置から順に地点名を記します)
竪堀、花弁型竪堀、堀切、主郭、金毘羅社、石灯籠、堀切、石碑、ショウケが鼻

屋山城跡
 屋山城は、六郷満山 長安寺の伽藍の上に築かれた連郭式山城で、戦国武将 吉弘氏の居城でした。
 急な坂道を進むと、数十mにも及ぶ長大な竪堀を備える屋山城の虎口が待ち構えています。そこから尾根に沿って400mほど城跡が続き、数段に別れる郭や2本の堀切など、城を守る仕掛けが残っています。
 終点に突き出たショウケが鼻からは、都甲地区にとどまらず西国東地区全体が一望でき、豊後の西の要としての屋山城の姿がよみがえります。

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 見晴らし台のところから台地上に上りつくまで、急坂が続きます。ロープを張ってくださっていますので安全に通行できますけれども、雨上がりには滑りこけそうな傾斜があります。

 竪堀に沿うて登っていきます。上りながらに、左右にうねうねとした地形がよう分かりました。これは自然地形ではなく、防禦のために溝を切った跡なのです。もう少し深い溝であったのが、年月の経過に伴い土が流れて浅くなったのではないでしょうか。

 台地上に上りついたら傾斜はごく緩やかになりますが、岩がごろごろしています。ほぼ一直線の道で、特に迷いやすいような場面はありません。堀切も浅いので、問題なく通行できます。

 しばらく行くと、倒壊した金毘羅様の祠と灯籠、それから山頂標識が見えてきます。屋山の頂上に着きました。わたしは登山が趣味というわけでもないので、歩いて登ったことのある山は僅かです。由布岳久住山など、いつか登ってみたやと思いながらも、結局は思うばかりで登ったことはありません。登ったことのある山で特に難渋したのは津波戸山のお山巡り(四国八十八所)で、難所続きの道中に胆を冷やしたばかりか全部めぐると思いの外道が長く、疲労困憊しました。それにくらべると屋山は、ハイキング気分でのんびり登れましたが、やはり山頂に到着しますと達成感のようなものが感じました。

 自然の大岩に窪みを彫って、お手水にこしらえてあります。実際に使うときはどのようにしていたのでしょう。こんな溜まり水で手を清める気にはなれません。どうかして水を運んで来て、この窪みに注いでいたのでしょうか?

 左右の台座には「奉獻」の文字を割り振って1字ずつ大きく彫ってあります。その上には破損した何らかの石造物が乗っており、つくづく観察するにどうも狛犬のようです。「獻」の上に乗った像に、辛うじて前脚の名残が感じられます。ただの風化摩滅というよりは、この山頂にあっては台風その他の影響ですさまじく、像がかやったか、または倒木が倒れかかったかして壊れたのでしょう。立派な石祠のお屋根が前方に転がっていることからも推量できます。

金比羅

 もともとは装飾性に富んだ石祠であったようです。破損が惜しまれます。脱落して手前に安置された部分には、交差する箇所に獅子をこしらえるなど、木造のお社さながらの造りになっています。

 灯籠も上が壊れて、火袋がなくなっています。猫脚のところの唐獅子に注目してください。細やかな彫りがよいと思います。

 金毘羅様から少し進めば、あっと驚くほど大きな石灯籠が残っています。石の積み方は乱積みに近いほど荒々しいのに、これほどの大きさのものが倒壊せずに残っていることに感心致しました。すぐ手前の金毘羅様があんなに荒れてるのを見た直後なので、余計にそう思います。

河野貞八翁建立

 標柱により、この立派な灯籠は河野貞八さんが建立されたことが分かります。

 標柱の裏には由来が彫ってあります。内容を転記します。
※読みやすいように片仮名を平仮名に、旧字を新字に改め、句読点を補います

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 翁は天保十二年正月、加礼川村字新田に生まる。資性温良泰倹、身を奉ずること勤勉力行、極めて簡素倹約にして克く座を治む。夙に敬神の念厚く、明治十年、家運長久四海平穏を祈願して石灯籠を建立し、常夜、麓より灯を供進す。

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屋山城址之碑
陸軍大将南次郎書

 この碑の辺りからなだらかな下り坂になります。なおも尾根伝いに進めば「ショウケが鼻」に出ます。

 ショウケが鼻からは素晴らしい大展望が広がります。特に高田方面の眺めが素晴らしい。地名の由来は分かりませんが、シ屋山は、その山の形がショウケを伏せたように見えます。その鼻、突端なので「ショウケが鼻」と呼んだのではないでしょうか?

 

○ 竹細工のショウケについて

 ショウケという言葉はだんだん死語になりつつあるように思います。梅を干すときなどに活躍する、竹で編んだ丸くて浅いザルのことを「ショウケ」とか「ショケ」と申しまして、日常生活になくてはならないものでした。まだ現役で使っている家庭も多いかと思います。昔はお祭りなどで市が立ったときや、行商人が村にまわってきたときに買い求めて、長く使いました。竹でこしらえたショウケは耐久性に優れており、長持ちします。縁をぐるぐると平均に巻き立ててあるところなど、見るからに作り方が難しそうです。複雑な編み目の竹細工にくらべますと飾りっ気のないものですけれども、機能美に優れています。大分県の特産品である竹細工の中でも、代表格といえるのではないでしょうか。

 

今回は以上です。次回は弥生町の記事を書きます。

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