大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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三重の名所めぐり(三重町) その2

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 前回、松尾から鷲谷(わしたに)を目指して、旧三重南小学校まで紹介しました。今回はその続きで、大字鷲谷の石造文化財を紹介します。中でも並石の石幢は行き方が難しいので、道順を詳しく書きます。

 

4 小園の庚申塔

 大字鷲谷は、現行の行政区としては下鷲谷と上鷲谷の2つですが、実際にはそれぞれがいくつかの小部落に分かれています。松尾から県道を辿り旧三重南小学校を過ぎますと道幅が狭くなります。道路右下に宮山神社を見て、その先を右に下った部落も下鷲谷のうちですが、今回は寄らずに直進しそのまま県道を進みました。その先が小園部落で、こちらには下鷲谷の公民館があります。道路左側の傾斜地に数軒の民家が寄り集まっています。その先の方の大岩の上にいくつかの石塔が密集しているのが遠目にも分かります(冒頭の写真は振り返って撮影したものです)。

 大岩の横が三叉路になっています。今回、車をその端ぎりぎりに駐車して手短に見学しました。もしゆっくり見たいときは公民館に停めさせていただいた方がよいかもしれません。

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 段差が高くて岩の上に上がれないのではと心配していましたが、三叉路を少し左に入れば、折り返すようにして簡単に上がることができました。

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青面金剛6臂

 ごく小ぶりな、青面金剛のみで猿も鶏も伴わないシンプルな塔です。塔身のへりの部分が傷んできており碑面も荒れ気味でしたが、幸いにも像の部分はあまり傷んでおらず細かいところまでよく分かりました。特徴的な髪型の主尊は、立派な眉毛と目の間が狭く、きりりとつり上がった目つきにて非常に厳めしい雰囲気がございます。上半身を見ますとこれ見よがしに力強さを誇示するような所作でありますのに、下半身はほんにささやかな表現で、その対比がおもしろいではありませんか。

 こちらはお供えの枝の蔭になっていたので、うまく写真に撮れませんでした。この日は天気がよくてほんに気持ちのよい道中でしたが、石造文化財の見学に限れば曇り空の日が最も適しているような気がします。

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 こちらの仏様も、小ぶりながらも厚肉彫りで、均整がとれています。やや形式的ではありますけれども螺髪の表現などよく工夫された、丁寧な仕上がりです。この大岩の上にあって、大昔から部落の方々のみならで道路を通る方々を見守ってくださっています。

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 ほかにも文字庚申(梵字あり)や五輪塔の笠など、いろいろな石造物が密集していました。ありがたい名所でございます。

 さて、この大岩の角を左に上がれば1~2軒のみの小部落を2つを経由して本匠村は元山部(古い庚申塔あり・因尾シリーズにて紹介済)に至りますが、道が悪いので通らない方がよいでしょう。もし元山部に行きたいときは、宮山神社よりも手前、佩楯山の看板のある二股から左に上がります(普通車までなら問題なく通れますが離合は困難)。今回は並石部落を目指しますのでこの角を曲がらず、直進して県道を辿ります。

 

5 並石の石造物(イ

 今回、並石(なめし)部落付近にあります石幢(文化財指定あり)と庚申塔の探訪を楽しみにしていました。その道中に難渋し、やっと行き当たりましたのでその経緯を書いてみます。結論から申しますと、石幢と庚申塔は、車で行く場合には下鷲谷から直接車行くことはできません。それで説明の都合上、下鷲谷側から並石部落に上がったところにある石造物を(イ)、庚申塔と石幢を(ロ)として別項にて紹介することにします。

 小園の庚申塔を過ぎて道なりに小さな橋を渡ってすぐ、右側に消防団の倉庫があります。その手前を右折しました(並石の標識あり)。入口から、ちょっと不安になるような道幅でしたが一応舗装されていますし、地図上では松谷(大字内山)につながっていますので問題なかろうとの判断で、車でこの道に入りました。田んぼを抜けるといよいよ山道の様相を呈し、一旦谷筋に下ります。そこから先は落石だらけのものすごい急坂で、大回りしないと底を擦りそうな九十九折になっているところもありました。しかも軽自動車がやっとの幅しかなくいよいよ不安になってまいりましたが、どうにか登っていきますと道路右側に石造物が並んでいました。目的の石幢・庚申塔はまだ先のようでしたが、ひとまずこちらを見学いたしました。

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 お弘法様などの祠が並んでいます。

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 祠の左並びには三界万霊塔が3基も並び、祠の後ろには無銘ですが庚申塔らしき自然石も見られました。こちらの三界万霊塔は三角形で、近隣ではあまり見かけない形状です。これほどたくさんの石造物が並んでいることから、今は滅多に通りのないこの道も、昔は利用頻度が高い重要な道であったのだろうと推察されました。この山道を越えて松谷に下れば、三国峠の道(旧国道326号)に合流します。昔、徒歩で行き来していた時代には、鷲谷に上がるのに盛んに通りがあったのでしょう。

 この石塔群のすぐ先に、ただ1軒の民家がございます。ここが並石部落なのだとやっと気付きました。昔はもう何軒かはあったと思いますがその痕跡は分かりませんでした。民家から先はいよいよ道が荒れて、どう見ても車で通れる状態ではありません。坪で転回させていただきまして、あの難所の道をローギヤでやっと下って消防団の倉庫のところまでやっとの思いで戻りました。

 

6 上鷲谷の石造物

 並石の石幢と庚申塔は松谷側から訪ねることにして、上鷲谷を目指しました。消防団の倉庫を右折(下鷲谷からなら直進)して道なりに進みます。こちらも道は狭いもののさすがは県道、並石の山道とはわけが違います。安心して通行でき、ほっといたしました。

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 道なりに行きますと、上鷲谷の中心部落よりも手前、道路右側に石造物が寄せられていました。中央の大きな塔がひときわ目を引きます。「法華石書塔」、つまり一字一石塔であります。石書塔という表現は珍しいような気がしますが、分かり易い呼び方です。左端の塔の珍妙な造形にも目が釘付けになりました。明らかに普通の五輪塔ではなく、何らかの塔の後家合わせのようです。この後ろの崖際には庚申塔(全部文字塔です)がずらりと並んでいました。

 こちらは基壇がしっかりしていて、破損の心配がありません。庚申講などのお祭りが止んでも粗末にならずに済みますから、よいことだと思います。道路端にありますので、前を通行する際にはちょっとお参りをされてはいかがでしょう。

 

7 並石の石造物(ロ)

 上鷲谷部落の中心部を過ぎて右折し、松谷方面に下ります。この道も、途中がとても狭くなっていて通行に注意を要します。注意点として、途中で二股になっているところは右折した方が幾分通り易いと思います。これを直進しますと遠回りになるうえにものすごく狭い道になり、結局、右折する方の道と合流することになります。この辺りが松谷部落で、5軒ほどの民家が山中に点在しています。いちばん下のお宅のところの二又を左にとれば国道326号の現道に合流しますが、今回はこれを右にとりまして旧国道を目指します。

 次の二又は左にとり、少し上れば旧国道326号に突き当たります。これを右折しまして、旧国道を三重方面に辿ります。ほどなく変則十字路に出ますので、直進します(左奥・下り方向)。道なりに行き、狭いトンネルをくぐってすぐのところが三叉路になっています。これを右折すれば、先ほど車が通れずに引き返した並石部落の道につながっているのです。

 さて、並石への道の上り口にやっと到着したわけですが、出だしから荒れ気味の様子が感じられました。どうにか車で通れそうでしたがこの道は初めてで、どうせ通り抜けができないのは分かり切っていますし、転回できるか不安でしたので、歩いて行くことにしました。今から辿る道の上がりはな、左側の空き地に駐車して出発です。

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 歩いてみますと案外遠く、なかなか目的地に近づきません。しかも、ところどころに木の枝が落ちていたり路肩が傷んだりしていたものの、車で通るには全く問題なさそうな道でした(人それぞれ感じ方が異なると思います…画像の箇所は比較的良好な状態でこれよりも悪いところの方が多い)。この後にもいろいろと行きたいところがあったものですから車で来ればよかったと悔やみましたが、後の祭りです。秋風に吹かれて歩くのもなかなか気持ちがようございました。

 途中、椎茸のホダ木を置いてあるところがありました。その先のお墓のところが少し広くなっていて、転回できます。そこから先は道が荒れて車は通れません。目指す文化財まであと少しです。

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 左に大カーブするところの外側に石幢が立っているのが見えました。この寂しい山道を1人で歩いてきましたので、到着してほっといたしました。

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 文化財の標柱が立っています。手前が単制、奥が重制の石幢です。それぞれ詳しく見てみましょう。

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 シンプルな造形でありながら、笠の軒口のところの細かい凹凸などよく工夫されています。特に傷みもなく、スマートな姿が美しいではありませんか。四面に梵字が刻まれています。梵字に明るくないので内容は分かりませんが、四方仏の類かもしれません。

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 重制石幢の方は笠がやや傷んできていますが、龕部は非常に良好な状態を保っています。奥の崖に何か石造物が見えていますが、これは後ほど紹介します。先に石幢の龕部を見てみましょう。

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 龕部は八角形をなし、1面あてに1体の像が刻まれています。六地蔵様と、閻魔様や能化様と思われます。やや平板な造形でありながらこまかく前後差をつけて、お地蔵様の一体々々が少しずつ姿を違えて丁寧に表現してあります。特に袂のふっくらとした表現や、足下の様子などが素晴らしいではありませんか。

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 標柱の裏に説明が書いてありました。

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永正14年(1517)の造立で、清屋道禅定門浄明妙連信女が現生安穏を願ったものである。

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 何かの古文書により分かったことなのか、または塔身にこのような碑文があったものの今ではわかりにくくなっているのか、さっぱり分かりませんが、この石幢の謂れを理解することができました。

 さて、今度は道路反対側の崖下にある石造物を見てみましょう。こちらは庚申塔で、正直に申しますと石幢よりもこちらの方が印象深うございます。

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 左に写っている祠の中は空でした。中央の石組は全て文字塔で、その中に安置されているのが刻像塔です。右下に立てかけられているのは文字塔です。

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庚申

 右下に立てかけられている塔です。全体を植物が蔽っておりましたので除去しました。梵字が花文字になっていて、流麗な書体が見事ではありませんか。下の方には小さな字で、造立に関った方のお名前がずらりと刻まれています。

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 中央の庚申塔群です。最初、刻像塔に目を奪われて気付かなかったのですが、その左右および奥の石柱のように見えたのは、全部庚申塔です。あっと驚きました。このようなお祀りの仕方は、宇目町でも見たことがあります。この地からは三国峠または旗返峠を越せば宇目町もほど近く、同様の伝承があるのでしょう。おそらく待ち上げのたびに文字塔を立てて、それが一定の数になれば大待ち上げで豪勢な刻像塔を造立し、文字塔を以て御室となしたものと思われます。屋根の部分はこれ専用にこしらえたものではなく、破損した宝塔か何かの流用のような気がいたします。それと申しますのも、下から見上げますと中央に丸い窪みがあるのです。しかも真っ二つに割れています。破損した塔の部材をこちらに持ってきて、刻像塔の屋根代わりにしたと見るのが自然でしょう。

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青面金剛6臂、ショケラ ※文政八酉天、十月七日

 一見して猿も鶏も刻まれていないことに気付かないほどに、豪勢な感じのする塔でございます。珍妙な髪型の主尊は、まるで定規をあてて引いたような眉をつり上げて眉間には皺を寄せ、さても厳めしそうな目つきであります。それなのに鼻の形や口元の様子から、全体としてはそう怖そうな印象は受けませんでした。外側に伸びた4本の腕のカクカクとした表現、弓に対して異常に大きい矢などは漫画的な表現で可笑しうございます。体を見ますと衣紋の細かいヒダや、前に打ち合わせたところの紐の蝶結びなど、非常に細やかに表現してあり感心します。

 また、弓と重なり合うのを厭わで強引に「文政八酉天」「十月七日」と主尊の両側に刻んでいるのも個性的です。このために、鳥や猿がいなくても豪勢に見えたのでしょう。耕運機のベルトのような瑞雲、鮮やかな赤い彩色とコケの色が相俟って非常に毒々しい風合いになっているのも見逃せません。個性豊かで珍妙かつ微に入り細に入った丁寧な表現の庚申様で、素晴らしいと思います。これほどのものでありますから、文字塔を立てかけて屋根をかけてお守りしたくなる気持ちも分かるような気がいたします。凡そ200年前の造立です。 

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庚申塔

 右に立てかけられている文字塔は宝暦14年、凡そ260年前ですから刻像塔よりも50年以上昔になります。やはり長い年月をかけて一つまた一つと造立し、このように立派な庚申塚をなしているのです。今はただ1軒のみになっている並石部落も、昔は何軒もあって賑わっていたのでしょう。

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奉待庚申塔

 寛保3年、およそ270年前の造立であります。

 先ほど申しましたように、刻像塔の奥にも何基もの文字塔が立てかけられています。このようなお祀りの仕方は、奥になっている文字塔が見えにくくなってしまいますが、傷んだり粗末になったりするのを防ぐのに一役買っているような気がいたします。石幢と違い文化財に指定されておりませんが、三重町内におきましてはこのように文字塔と刻像塔を組み合わせて庚申塚となしている事例は珍しいのではないでしょうか。今は通る人もないこの山道に寂しく立ち続ける庚申様は、並石部落の安寧や、はるか麓の国道326号の交通安全などを見守ってくださっています。石幢の見学に訪れる方も稀であるとは存じますが、そのついでにでもちょっと庚申様にも手を合わせて頂きますと庚申様のお蔭があると思いますし、気に掛ける方が一人でもおいでになれば、それだけでも文化財の保護につながると思います。

 

今回は以上です。三重地区の名所めぐりとしては一旦お休みにして、次は菅尾地区や百枝地区の名所・文化財を紹介いたします。三重地区にもまだまだ、行きそびれたところがたくさんありますから、また探訪でき次第続きを書きます。