大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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北杵築の名所・文化財 その6(杵築市)

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 何回か捜していた三尾平の庚申塔(下)を、先日やっと発見しました。それで「都甲路を行く」のシリーズをお休みして、北杵築のシリーズの続きを書きます。今回は下記の内容です。

21 尾上前台(下組)の石仏群

22 尾上の庚申塔

23 波多方峠と三尾平について

24 三尾平の庚申塔(下)

 

21 尾上前台(下組)の石仏群

 こちらに車で訪れる場合は、軽自動車でなければ難渋します(大型ワゴンでもなければ通れないことはありませんが脱輪注意)。運転に不安があればどこかに駐車して歩いて訪れた方がよいでしょう。

 尾上(おかみ)は大字船部(ふなべ)の中心地です。県道の新道が開通した今となっては陸橋で一跨ぎですが、かつては交通の要衝で、商店もございました。溝井から旧県道を登ってくると、集落中心部にて十字路になっています。まっすぐ登れば払川(はらいがわ)を経て波多方(はだかた)峠へ、左折すれば松村を経て東山香または八坂へ、右折すれば中津屋を経て鴨川に至ります。

 今回、この十字路からスタートします。中津屋方面へ2車線の道路を下りますと、左側に青い屋根の大きな建物(農業関係)が見えてきます。その建物の手前、右側の人家が途切れたところ(ビニルハウスの手前)を右折し、右に民家を、左下に田んぼを見て進みます。ここから道幅が狭くなります。道なりに行き、突き当りの三叉路を左折してさらに進みます。いちばん奥のお宅と倉庫の間を抜けるとさらに道が狭くなり、しかも路肩が傷んでいるところがありますので注意を要します。ちょっと不安になる道幅ですが、ここまで来ればあと少しです。道路右側の平地に石造物が見えたら到着です。

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 前の道路はたいへん狭く適当な駐車場所がないので、路上に駐車して急いでお参りするよりほかありません。滅多に車の通らない道ですが農繁期は避けた方が無難でしょう。馬頭観音様、大威徳明王様、石燈籠、庚申塔がございます。

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 小ぶりではありますが、細かい部分までよく残った大威徳明王様です。一般に牛の乗った仏様をひとくくりに、大日様・大威徳明王様の区別なく大日様と呼ぶことが多うございます。その方が通りがよいので、もしどこかの大威徳明王様の所在を地域の方にお尋ねになる際には大日様と訊かれた方がよろしいかもしれません。

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 こちらは馬頭観音様です。観音様の3つの頭の中央に馬の頭が刻まれているのがよくわかります。中央のお顔が少し傷んでいるのが残念ですが、雨ざらしになっていることや立地を考慮すれば、良好な保存状態といえましょう。馬頭観音様は、牛馬の神様として農村部においてたいへん親しまれています。昔は田畑の耕作に牛や馬を使うのが常でありましたし、農閑期の副業に駄賃取りをする方も多うございましたので、殊に山間部における信仰は絶大なものがあったようです。こちらの馬頭観音様はお顔の表情が優しそうで親しみやすく感じられました。髪の毛や衣紋の紐など、細かい彫りで丁寧に表現されています。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 元々が扁平な彫りであったのでしょうが、風化摩滅が著しく、諸像の姿がぼんやりとしてきています。火焔光背をいただく金剛さんの頭はまるでお地蔵さんのような形ですけれども、表情はずいぶん厳めしそうに見えます。童子は形式的な表現で、ちょうど身幅が、金剛さんと2童子でほぼ1:1:1になっています。金剛さんの足元の台座と外枠の縁取りにはまり込むように立つ童子の脚が、まるで子供の描いた絵のように見えてきました。下部は苔の侵蝕が著しく、鶏の姿がほとんどわからなくなってきているのが惜しまれます。

 ところで、この庚申塔の後ろにはそれなりの大きさの岩があります。おそらく、この岩も昔は信仰の対象だったのではないでしょうか。岩の正面に庚申塔が立っているのも、何か意味がありそうです。

 もしここまで車で来られた場合、転回ができません。道幅が狭いので、バックするよりもそのまま先に進んだ方がよいでしょう。この先の三叉路を折り返すように右折し狭い道を登っていけば、尾上から溝井に下る新県道の途中に出られます。

 

22 尾上の庚申塔

 溝井から尾上へと新道を登っていきますと、道路左側の高い位置に「きつき茶」と書かれた縦長の大きな白い看板があります。その先を左折します。左側に尾上の製茶工場を見てすぐ、左右に狭い道が分かれて十字路になっているところを右折します(直進しますと先述の尾上中心部の十字路そば、尾上公民館のところに出ます)。右折したらすぐ、新道の下をくぐることになります。その先のお墓のところに駐車して、新道に沿うて右に行きますと、右側に参道がございます。

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 この階段が参道です。たいへん立派に整備されております。この小山は先ほど通ってきた県道新道からもよく見えるのですぐわかると思います。

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 参道を登りましたら、小山の頂上に庚申塔と石灯籠がございます。周囲を注連縄で囲うており、この小山自体が聖域とみなされているようです。周囲にはそれなりの大きさの岩がございまして、巨石崇拝の跡地であるのかもしれません。おそらく新道が開通する以前は、もう少し岩が多かったのでしょう。参道の階段や広場の舗装など整備が行き届いており、今も信仰が続いていることがわかります。ただしそれは庚申様の信仰であって、巨石崇拝というわけではなさそうです。

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青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 実に堂々とした塔です。ちょっと太り気味の金剛さんのお顔を見てください。なんと怖そうなお顔でしょうか。この威厳でもってどんな悪霊も退治してくれそうなお姿です。厚肉彫りで表現しており、前台の庚申様とは正反対の印象です。短い脚の太いことといったら、まるでお相撲さんのようにどっしりと踏みしめて、テコでも動かないぞ!という力強さを感じます。上部を見ますと、線彫りで表現した瑞雲が流麗な感じがして、金剛さんとは対照的です。二童子の姿はささやかで細かい部分が曖昧になってきておりますけれども、かろうじて残る表情はすまし顔にて、これまた金剛さんと対照的であるのがおもしろいではありませんか。猿の表現もおもしろくて、左右の猿が金剛さんの台座の柱にすがりついているように見えます。その下の鶏も、雄鶏と雌鶏でことさらに大きさを変えていて、まるで漫画のような表現です。猿の左右に空白を広くとっているところには何らかの文字が刻まれているのではないかなと思ったのですが、よくわかりませんでした。

 

23 波多方峠と三尾平について

 大字船部は中津屋・尾上・払川・船部・三尾平(みおのひら)に分かれていまして、中津屋を除く各集落は北杵築の中でも特に標高の高い地域です。殊に三尾平は尾迫(大字岩谷)、松村(大字大片平)と並ぶ北杵築随一の高所でありまして、高熊山麓の傾斜地に棚田を拓き、猫の額ほどの平地に10軒ほどが集まり塊村の様相を呈しています。元は払川の枝村であったそうですが形成逆転して久しく、今や払川は尾上に合併しその地名も忘れられつつあります。

 さて、先に説明しました尾上中心部の十字路から、お茶畑の中を縫うように右に左に折り返しながら旧県道を登っていきます。この辺りはたいへん風光明美で、お茶畑に九十九折の坂道はこの地域を象徴する風景といえましょう。その先はお茶畑から外れ、払川池の上を通って波多方峠へと登って行きます。このルートは自動車通行のために開鑿された新道(今となっては旧道ですが)でありまして、旧往還はお茶畑の途中より左に折れて(車不可)、上のお茶畑の中を登ります。上の方で旧往還と旧県道が合流し、少し上がると左に三尾平への市道が分かれます。旧県道はこの分かれ道のところから折り返すように右方向に登っていき波多方峠のすぐ下を回り込んで大田村に入ります。この部分も旧往還から外れています。でも、たいへん見晴らしがよいので時間があれば通行されることをお勧めいたします。

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 旧県道の峠(旧の波多方峠の下)から杵築の町の方を見た写真です。天気がよければ佐賀関の煙突まで見えますし、眼下にはお茶畑が広がり、たいへん気持ちのよい場所です。路肩が広くなっていますので、こちらで休憩をされるとよいでしょう。この先は大田村で、平成半ばに波多方トンネルが開通するまでは、杵築から高田に行くにはこの曲がりくねった峠道を通っていました。

 旧往還は、先述の分かれ道を左折して三尾平方面に進みます。集落のかかりにて、右前に高熊山への林道が分かれています。この分かれ道のところからを折り返すように右後ろに登っていく道が旧往還で、旧の波多方峠に至ります(自動車は上がれません)。この道を行くと、狼煙場跡、駕籠立場跡などの史跡が、その先には妙見様の祠がございます。この祠の後ろは牧草地になっておりまして、かつては波多方高原などと申しましてハイキングや遠足の目的地として親しまれていました。牧草地のすぐ先には、もう一つ妙見様がございます。こちらは波多方村(大田村大字波多方)の妙見様です。このように波多方峠旧道(旧往還)には名所旧跡が多々ございますが写真がありませんので、別の機会に紹介します。

 三尾平は旧の波多方峠のすぐ下です。払川の枝村として三尾平が拓かれたのは、昔、歩いて峠を越していた時代の事情によるのでしょう。この三尾平には、庚申塔が2基あります。1基は、旧峠への上がりはなに位置します。もう1基は、船部橋(尾上と船部の境界)から谷沿いに三尾平に上がる道の途中に位置します。便宜的に前者を三尾平(上)、後者を三尾平(下)とします。上の庚申塔は別の機会として、今回は下の庚申塔を紹介します。

 

24 三尾ノ平の庚申塔(下)

 尾上の十字路から船部方面に進みます。小さな橋の手前に、右方向にコンクリ舗装の狭い道が分かれています(自動車も通れます)。これが、三尾ノ平に上がるもう一つの道です。この道を登っていきますと、右側に離合場所があります。この離合場所はある程度の長さがありますので、その端に邪魔にならないように駐車して今来た道を歩いて戻ります。離合場所の右側に電信柱があります。その電信柱を1本目として、下り方向に数えて2本目と3本目の中間辺りまで戻ります。

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 ここが、電信柱2本目と3本目の中間あたりです。左側の斜めに生えた小さな木の手前にかすかな踏み跡がありますので、ここを左に上がります。上がりますと、一段上の旧道敷に出ます。

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 こちらが旧道です。さきほど車で登ってきた道とほぼ並行しているのですが茂みに隠れていて、よくよく気を付けませんとここに旧道があることはわからないと思います。旧道もそれなりの幅がありまして、以前は自動車も通っていました。

 庚申塔は、この旧道の山側の斜面中腹にございます。目線よりも高い位置で、しかも間の悪いことに枯れ竹や茂みに隠れ気味にて、よく気を付けませんと見落とします。先ほど説明した現道から上がりついたところのすぐ近くですので、あまり移動せずに捜すと見つかると思います。

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 足場の悪い急斜面を上がって近寄らないと、木に隠れてよく見えません。雨降りのあとはやめておいた方がよいでしょう。幸いにもこの急斜面にあってしっかりと立っており、ほっといたしました。

 こちらは仏様と庚申様が前後に並び、とてもありがたい感じがいたします。この仏様は、おそらく庚申様と横並びかすぐ近くに安置されていたのが斜面の荒廃により不安定になっていたか何かで、どなたかが庚申塔の台座部分に移して安置しなおされたものではないかと思います。仏様の下部が庚申塔の台座からずいぶんはみ出していましたので万が一のことがあってはならないと考え、失礼になるかなとも思ったのですができる範囲で少しだけ後ろに動かし塔に近づけさせていただきました。それでも若干はみ出した状態ですが、仏様は思っていたよりもずっと重さがありましたので、庚申塔が倒れない限りは仏様も安泰でしょう。

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青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 レリーフ状の表現にて一部不鮮明になりつつありますけれど、周囲の荒廃ぶりに比して比較的良好な保存状態といえましょう。わずかに身をよじらせた金剛さんの6本の腕の長さがまちまちで、自由奔放な表現です。殊に右下に斜めに伸ばした腕が異常に長く、握った指の表現も失礼ですけど少しいい加減な感じがします。でも、三叉戟からまっすぐ伸びているように見える火焔光背ですとか表情、立ち姿など総合的に見ますとどっしりと強そうで、風格すら感じられます。均整のとれた表現とは言い難いものの、それだけでは測れないものがございます。弓などをことさらに大きく表現して盤面をいっぱいに活用しておりますので、たいへん賑やかで豪華な印象の塔です。やや遠慮がちに寄り添う童子や、赤子のよな猿がかわいらしいではありませんか。猿や鶏については前の仏様に隠れており、上から撮ったのでややわかりにくいかもしれません。実物を見ると、写真よりはよくわかります。

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 庚申塔のすぐ左側で見つけた石燈籠の残骸です。火袋の部分などは転落したようで、斜面を少し捜してみたのですがそれらしいものが見当たりませんでした。ちょど残っていた残骸に「施主当村中」の文字が見えます。ばらばらに壊れてしまいお気の毒ですけれど、この部分だけでも残っているのが救いです。

 こちらの塔は、現状として非常に見つけにくいうえに、お年寄りなどはお参りにも難渋しそうです。もはや信仰も絶えんとする中、できれば下の道路の離合場所などに下ろしていただきたいと思いました。誰も通らなくなった旧道の、しかも木や枯れ竹で隠れた崖上にあっては庚申様が寂しそうですし、塔の転倒・転落やそれによる折損が懸念されます。私には何の権限もございませんし、重たい塔をどうすることもできません。そして地域の方、集落の方にも、なかなか難しいと思います。いざ下ろすとしたところで、その方法に難渋するのですから何とも悩ましいことでございます。

 文化財には、指定文化財と未指定文化財がございます。どちらも、地域の宝です。未指定であっても、石造美術品としての価値はもとより、長い年月の、地域の方々の生活史の一端としての価値・民俗学的な価値などを内包するものとして、やはり文化財的な価値がございます。行政の介入は、指定文化財で手一杯なのです。以前は、未指定文化財の研究や保護活動などには、郷土史家の諸先生方や史談会会員の活躍が顕著でした。ところが今や高齢化や地域社会の変容により史談会活動が下火になりつつあり、未指定文化財の保護が喫緊の課題になってきております。いろいろと考えさせられる探訪でございました。

 

今回は以上です。次回より「都甲を行く」のシリーズに戻ります。北杵築のシリーズも、折に触れて続きを書いていきます。よろしくお願いします。