大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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朝日の名所めぐり その1~十万地獄の今昔~(別府市)

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 朝日地区は大字鶴見および大字鉄輪(かんなわ)からなります。この地域の初回は、鉄輪温泉にあります十万地獄を紹介します。今回は少し趣向を変えて、手持ちの古い絵葉書と現在の写真の両方を掲載します。両者を比較して、景色の移り変わりを見ていただきたいと思います。

 

○ 別府の地獄について

 別府の地獄と申しますと血の池地獄、海地獄、坊主地獄等が著名です。そもそも「別府地獄めぐり」とは別府地獄組合に加盟しておる地獄を巡回するもので、今は海地獄、鬼石坊主地獄(新坊主と鬼石地獄の総称)、竃地獄、 鬼山地獄、白池地獄、血の池地獄、龍巻地獄の7か所を巡るようになっております。ほんの10年ほど前には山地獄、金龍地獄も加盟していたように記憶しておりますが、この2か所は脱退しました(金龍地獄は休業中のようです)。ほかに、組合に加盟していない地獄としては坊主地獄(本坊主)、鶴見地獄、明礬地獄、乙原地獄(観音地獄)があります。

 昔は、これ以外にもたくさんの地獄がありました。八幡地獄、前八幡、雷園(かみなりえん ※)、鉄輪地獄、十万地獄、紺屋地獄などを懐かしく思い出される方も多いのではないでしょうか。ほかに今井地獄、照湯地獄、三日月地獄などもありました。

※雷園…古い絵葉書にしばしば「雷園地獄」と書かれ「らいえんじごく」のルビを目にしますが誤りです。

 こうしていろいろな地獄の名称を列挙してみますと、昔いかに地獄が多かったかがよくわかりまして、その数に驚かされます。どうしてこんなにたくさんの地獄があったのかと申しますと、観光開発のため次から次に地獄が「開かれた」ためです。血の池地獄、海地獄などは元々あった地獄の周囲を整備して園地となしたものですし、鶴見地獄や八幡地獄などは大正から昭和初期にかけて自然に爆発し湧出が始まったところを整備したものでありますが、これらに加えて、意図的にボーリングをして造成したところがかなりありました。

 昭和10年頃まで、殊に鉄輪温泉周辺における新規の地獄開発が目立ち、むやみやたらに地獄を開いたせいで近隣の泉源の湧出量がおしなべて低下するような事態に陥ったこともございました。それと申しますのも、これほど豊富な湯量でどこを突いてもお湯が湧いてくるのですから地獄の一つや二つ開発したところで何の問題もあるまいとの見当であったのです。しかし結果的に近隣の共同温泉にまで影響が及び、地獄の所有者は地元の方ではないことが多かったこともありまして「よそ者が地域のことなどこちゃ構やせぬとばかりに己が利得を算盤づくにてヤレ突けソラ掘れの末にこんな始末だ」云々の苦情も多く、地元住民との間に少なからぬ軋轢を生じるに至りました。とうとう新規の地獄開発を差し止める規定が作られ、湧出量は無事回復いたしまして今に至っております。

 

1 昔の十万地獄(絵葉書)

 昭和10年頃にピークを迎えた別府の地獄も、戦後には一つまた一つと姿を消していき、数が少なくなりました。今井地獄や照湯地獄等がなくなったのは付近の泉源の整備により地獄としての体をなさなくなったためですが、鉄輪温泉において消滅した地獄の多くは意図的に開かれた地獄です。鉄輪地獄や雷園、雷地獄等がそれにあたり、その跡地は温泉施設等に姿を変えました。ところが十万地獄はやや事情が異なります。この件は後述することにして、ひとまず昔の十万地獄の風景を絵葉書で紹介します。

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 見事な石垣ではありませんか。その方々から噴気があがり、さぞ壮観であったことでしょう。立て札には「玉子」とあります。地獄の噴気で温泉卵をこしらえて売っていたようです。絵葉書の説明は「(別府名所)随所に熱気奔出せる十万地獄」です。

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 立て札には「紺屋地獄」「原泉(源泉の意か)」とあります。石垣をついて遊歩道を設け、市内各地の著名な地獄を模したミニ地獄のようなものを点々と配したつくりであったのかもしれません。こちらは別府の地獄の中でも海地獄に比肩するほどの広大な敷地で、しかも鉄輪温泉からほど近いという好条件もありまして観光客が非常に多かったようです。

 そもそも十万地獄は鉄輪温泉一帯の重要な泉源でありまして、ここから方々に引き湯をしております。この一帯の字を地獄原(じごくばる)と申しまして、昔から公有地(昭和10年までは朝日村・それ以降は別府市)ですが、観光地としての十万地獄の管理は民間に委託されていました。こちらは地獄組合に加盟しておりませんでしたので共通観覧券は使えず別料金がかかったのですが、それと知らずに観覧したところ出口で別料金を徴収されたという旅行者からの苦情が当局に多く寄せられました。

 それと申しますのも絵葉書を見てわかるように地獄の周囲を塀で囲うているわけでもなく、十万地獄横から本坊主にかけての旧朝日公園と地続きであったために観光客の勘違いもやむなしといったところで、果ては地獄巡りのバス(亀の井・大橋など数社ありました)にまで不満を伝える向きもあり、こんな始末では観光地として大躍進をとげている別府の信用失墜につながるとのことで入口に別料金のかかる旨を明示するように勧告がなされましたものを全く改善される様子もなく、とうとう議会で槍玉にあがる事態となりまして地獄を経営していた業者は昭和16年に指定管理を解除されるに至りました。近隣の観光地獄がみな民営である中で十万地獄のみ市営とするのも障りがあったのでしょう、これをもって観光地としての十万地獄は一旦ご破算となったのです。立派な地獄なのですから阿漕な商売をせずとも遊覧客は訪れたでしょうに、目先の利得に惑わされて信用を二の次にしたツケが回ったと言わざるを得ません。その後も十万地獄自体は残り、戦後には再び観光客を入れたようですが、再び境界争いが勃発するなどトラブルが続き、新聞沙汰になったこともあります。この一連の騒動を教訓とし、天下の温泉地・別府の恥になるようなことが二度とないようにされたいものです。

 

2 十万地獄跡地

 時は流れて、十万地獄の旧園地は「鉄輪地獄地帯公園」として再整備されました。さまざまな遊具や長椅子等を配された広々とした公園には、いつも地域の子供達や親子連れが遊びに来ているほか、観光客の憩いの場としてもたいへん親しまれております。

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 この片隅に、今も十万地獄の源泉があります。

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 こちらの湯量たるやものすごく、今なお近隣の温泉の命綱なのです。もはや観光地としての面影は薄くなってしまった十万地獄でありますが、できれば昔の風景の写真等をパネルにして説明版を設けますと観光の方がご覧になるでしょうし、郷土の歴史を再認識する助けにもなることでしょう。

 

今回はこれでおしまいです。別府には、ほかにも懐かしい観光地、今はなき名所がたくさんございます。こちらでもまた紹介しますが、興味関心のある方には『絵はがきの別府』という書籍をお勧めいたします。地元の方のみならず、昔別府を旅行した想い出のあるご高齢の方へのプレゼントとしても最適な本です。思い出話に花が咲くと思います。