大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

石垣の名所めぐり その1~絵葉書で見る昔の観光地~(別府市)

 このシリーズでは石垣地区(旧石垣村)の名所旧跡を掲載していきます。この地域は大字東山・南立石および旧大字南石垣・北石垣(註)からなります。普通「石垣」と言えば旧大字南石垣・北石垣の地域をさし、大字南立石や東山をも含めての広域的な地域区分としての意味合いは薄れています。それで、旧石垣村の範囲をもって石垣地区とするのは憚られるような気もしますけれども、一応シリーズの体裁で飛び飛びに掲載していこうと思います。
註)今のところ旧大字南石垣全域と旧大字北石垣の一部に住居表示が施行されています。

 さて、長いこと石造文化財を中心とする記事が続いていますので、今回は普段の記事とは趣向を変えて、大字南立石に点在した昔の観光名所を手持ちの絵葉書で紹介していきます。小唄などをまじえながら、昔懐かしい風景をたくさん掲載します。なお、以前堀田温泉かいわいの名所を少し紹介しました。都合により、シリーズの番号としては過去の記事を「その2」として、今回を「その1」とします。

 

1 鶴見地獄(絵葉書)

 この地獄は霊仙寺の境内にその一部が現存しています。富士見通りを上っていき、鶴見地獄北交叉点の少し先から左に入れば、すさまじい熱蒸気を上げる地獄を道路から見物することができます。写真が適当ではないのでひとまず昔の鶴見地獄の風景を絵葉書で紹介して、今の鶴見地獄はまたの機会といたします。

 旧の鶴見地獄は、大正13年に噴出した無間地獄(現存せず)と同14年に大爆発した鶴見地獄を合わせて園地を整備したもので、亀の井バスや大橋バスによる別府地獄めぐりが人気を呼ぶ中で、戦前には別府八湯の主要な観光名所に数えられました。彩色された絵葉書を見ますと地獄のぐるりに仏像や東屋などが並び、広大な園地が整備されていたことが分かります。

 この絵葉書にはキャプションがないので時代が分かりません。モダンな意匠の建屋や向こうに見える風車が石垣とミスマッチな感じがしますけれども、レトロな感じがして好きな絵葉書です。扇山や内山を背景に、別府の自然が感じられます。

豊後別府 鶴見地獄

 この絵葉書にはモダンな建物が写っていません。より古い時代のものでしょう。熱蒸気の凄まじいこと、これを地獄と呼ばでなんと呼びましょうといったところです。また、よう見ますと蒸気の元が中央と左の2か所に大きく分かれていることが分かります。蓋し、左が無間地獄、中央が鶴見地獄でありましょう。

 昭和6年、下堅田小学校(佐伯市)の羽柴先生が別府・大分修学旅行に際して作詞作曲された唱歌に次のような文句があります。

「修学旅行唱歌」より
〽鶴見地獄の湯のたぎち たぎる湯玉のものすごさ
 地軸に響きとどろきて 壮観尽きじ類なし

THE VIEW OF STEAM RISING UP WITH A ROAR OUT OF THE SPRING AT TSURUMIJIGOKU BEPPU.
(別府名所)熱泉中に蒸汽の爆音轟々たる鶴見地獄

 湯気の掻い間に見える鬼のオブジェをクローズアップした絵葉書です。すさまじい湯蒸気の効果か、モノクロの効果か、さてもおどろおどろしい風情がございます。あとで紹介しますがすぐ近所の八幡(はちまん)地獄の「鬼の骨」と相俟って、観光客に強い印象を残したことでしょう。

 野口雨情による「別府温泉小唄」の中にも鶴見地獄の文句があります。

別府温泉小唄」より
〽抑えきれないわたしの胸は ちょうど鶴見の活地獄

 スキャナの調子が悪くて下部が見切れてしまいました。この絵葉書は、鶴見地獄の絵葉書の中でもいちばん好きなものです。右側には料金所の建物があり、その前に置いた机を3人の女性が囲んでいます。おそらくこれは記念スタンプを押すための机でしょう。今から見物に行く人、見物を終えて戻る人など、たくさんの人が行き来しています。セーラー服姿の生徒が多いのは、高等女学校の修学旅行生ではなかろうかと想像しました。これほどの賑わいを見せた鶴見地獄が、時代の移り変わりで寂れ果ててしまったのは残念なことです。

 

○ 新民謡「鶴見地獄」

 新民謡や郷土唱歌の中に見られる鶴見地獄の文句をいくつか紹介しましたが、鶴見地獄のみを唄った新民謡もあります。別府音頭でも都々逸でも、または祭文や三勝などといった郷土の盆口説の節で唄ってもよいでしょう。

〽思い焦がれりゃ涙でけぶる 鶴見地獄の湯のけむり
〽鶴見地獄にドライブすれば 憎や焦がれて昇る湯気
〽消えてしまえば儚い湯気に 鶴見地獄は身を焦がす
〽昇れ湯けむり鶴見の地獄 消よと焦がりょとひとすじに

 

2 八幡地獄(絵葉書)

 鶴見地獄のすぐ横(裏手)には八幡地獄がありました。こちらは元を権助地獄と申しまして、湧出量が減少していたところ昭和3年に再度噴出、園地を整備して八幡地獄と称したものです。以後、昭和20年代までは八幡・鶴見の両地獄として隆盛を極めました。亀の井バスの車掌さんが車内で唱えた名所説明文にも出てきます。

「行く手に見ゆるあの丘は 八幡・鶴見の両地獄 煮え立ち返る熱湯は この世さらなる恐ろしき 焦熱地獄でございます」

 また、戦前に流行した別府小唄の替唄で、地獄めぐりの文句があります。これはバスの中で車掌さんが唄ったもので、人口に膾炙しました。この小唄にも、鶴見地獄と八幡地獄が唄われています。

「別府小唄(替唄)」より
〽鶴見、八幡、石垣原を
 行く手楽しき ササ、遊覧コース
 動く野山の 景色に見とれ
 バスの小揺れの トコサイサイ乗り心地

THE STRANGE SIGHT OF HACHIMAN JIGOKU JETTING HOT WATER, BEPPU.
(別府名所)二百八十度の熱気随所に噴騰する八幡地獄

 キャプションには「熱気随所に」とあります。わたしの認識では、八幡地獄とは熱湯の池であったと思うておりましたので、この表記は気になりました。或いは山地獄とか十万地獄のように、方々から熱蒸気が上がる地獄であったのかもしれません。また、絵葉書に写っている裏山は、今の杉乃井ホテルのあたりです。

別府温泉小唄」より
〽私ゃ別府の八幡地獄 ぽつりぽつりと日を暮らす

別府八幡地獄

 水彩画風の絵葉書で、噴気のすさまじい八幡地獄もほのぼのとした雰囲気に見えてまいります。八幡地獄の全景が分からないので何とも言えないのですが、この絵は、後述する前八幡(八幡間歇地獄)のような気もします。両者は別の地獄ですが隣同士だったので、混同されることもままあったようです。

THE STRANGE SKELETON OF OGRE NEAR HACHIMAN JIGOKU, BEPPU.
(別府名所)身長一丈二尺餘鬼の骨なりといふものあり

 八幡地獄で人気を呼んだのが、この「鬼の骨」です。敷地内には「怪物館」という建物が併設され、館内には「鬼のミイラ」「河童のミイラ」「鵺のミイラ」など得体の知れない展示物が並んでいたそうです。真偽のほどをあれやこれやというよりは、単純に面白がって旅の土産話にした人が多かったのでしょう。

 絵葉書に写り込んでいる説明板の内容を転記しておきます。片仮名を異様に小さく書いてあるので数か所どうしても読み取れませんでしたが、内容は分かります。

~~~


之レハ或人ノ手ヨリ転●●シテ白●手ニ入リシモノナリ 兎ニ角昔●●鬼ノ顔ニヨク似テ居ル所ヨリ之レヲ鬼ト名付ケタリ 之ノ鬼ト云フモノハ果シテ何者デアルカ諸君ヨロシク御鑑定ヲ願フ
或ル動物学者ノ説ニヨレバ十六世紀ノ動物●●アフリカ・コンゴー附近ニ棲息シテ馬ヤ牛ノ如キ四足デアッテ尾蹄骨アリシモノナリ 兎ニ角珍シキ動物ナリ 諸君ヨロシク御高覧ノ程望フ
八幡地獄

~~~

 八幡地獄は閉鎖されて久しく、ほんの数年前までは跡地の入口に「八幡地獄」の表札のある門が残っていました。今は宗教施設の敷地になり昔の面影は何もありませんが、地獄の自然エネルギーを活用しており、「八幡地獄」の表札も大切に保管されているようです。

 

3 前八幡地獄(絵葉書)

 八幡地獄のすぐ隣には前八幡地獄がありました。ほぼ地続きで名前もそっくりですが、両者は経営者が異なりました。前八幡は間歇泉で、時間置きに熱湯が吹き上がります。ですから、観光客は時間を見計らって八幡地獄から前八幡に移動したようです。

別府温泉名勝)
世界有数なる間歇泉噴出高さ百尺

 この絵葉書はモノクロの写真に彩色を施したものです。以前も申しましたとおり、昔はモノクロ写真に色をつける専門の人がいました。自然な仕上がりが見事なものです。この絵葉書を見て驚きましたのが、噴出孔のすぐ近くに見物人が寄り集まっている点です。100尺といえば凡そ30m、多分に誇張もありましょうが、そんなに高く熱湯が噴き上がるのであれば飛沫が玉と散り、やけどをしてしまいそうです。

 いま、別府に残っている間歇泉は柴石の竜巻地獄だけです。戦前までは竜巻地獄に加えて前八幡と、朝日公園のところの間歇地獄(十万地獄の近く)、あわせて3つも間歇泉がありました。今の竜巻地獄は事故防止のため、噴出孔の上に石で屋根を設けて熱湯が飛び散らないようにしています。ところが前八幡の絵葉書を見ますとそんな対応はなされておらず、隔世の感がございます。

THE GRAND SIGHT OF STEAM RISING UP IN THICK CLOUDS OUT OF THE GEYSER, AT KANNKATSU JIGOKU, BEPPU.
(別府名所)熱泉噴出天に冲する間歇地獄の壮観

 この絵葉書を見ると間歇泉のすさまじさがよう分かります。前八幡地獄は湧出量の低下により昭和10年代に閉鎖されました。その跡地は「八幡児童公園」として、近隣住民に親しまれています。昔の面影はありません。

 ところで、前八幡地獄について「偽物の間歇泉をこしらえてお客を呼んでいた」云々という面白半分の悪口をお年寄りから聞いたことがあります。いくらなんでもそんなことはないのでは?と思いましたが… とまれ、もし今なおこの地獄が残っていたら必ずや別府の一大名所として人気を保っていたことでしょう。でももし残っていたとしても竜巻地獄同様に覆い屋をかけられて、絵葉書のような大迫力の光景を見ることは難しいとは思います。

 

4 鶴見園(絵葉書)

 鶴見園は、今のトキハインダストリー鶴見園店付近にあった遊園地です。大正14年に開園し、別府随一の観光地として絶大なる人気を集めました。遊園地と申しましても今のようにローラーコースターとか回転ブランコなどのある遊園地ではありません。その施設を羅列すれば庭園、展望台、休憩所、演芸場(講談・落語・奇術など)、大劇場(女優歌劇)、温泉(大浴場・滝湯・蒸湯・砂湯・家族風呂)、温泉プール、温泉動物園、食堂、メリーランド(電気遊技場)、スケート場、ビリヤード、卓球台、映写室、植物園等があったそうです。中でも女優歌劇は大人気で、ひところは九州の宝塚とも呼ばれていました。昭和初期にケーブル楽天地が開園しても、その人気は鶴見園に遠く及ばない状況が長く続いたそうです。しかし隆盛を極めた鶴見園も、戦争が激しくなって昭和18年に閉鎖されています。

THE TSURUMI PLEASURE GROUND VISITED CONTINUALLY THROUGH THE FOUR SEASONS, BEPPU.
(別府名所)遊覧者の訪れ繁き九州の宝塚鶴見の遊園

 風光明媚な庭園です。こんなお庭を散策したらさぞ楽しいことでしょう。現存しないのが惜しまれます。

 さて、昭和18年に閉鎖された鶴見園ですが、終戦後に進駐軍に接収されました。進駐軍が撤退した後に行ってみたら、自慢の庭園の岩などには毒々しいペイントがほどこされ、見るも無残な状況であったと聞きます。

 昭和44年には跡地に鶴見園レジャーセンターが開園しました。こちらは戦前の鶴見園とは異なり、今の感覚で言うところの遊園地です。ところが併設のホテルで火事を出してしまい、その影響で昭和51年に潰れてしまいました。余談ですが、別府市内には鶴見園レジャーセンター、ケーブルラクテンチ、城島ファミリーランドのほかに、別府園(今のルミエールの丘にあった遊園地・植物園)、志高ユートピアなどいろいろなレジャーランドがありましたし、近鉄百貨店の屋上も小遊園地の様相を呈していました。

 話を戻しまして、とにかく戦前の鶴見園は別府随一の観光名所でした。亀の井バスの名所案内文にも「九州の宝塚」という文言が出てきます。

「次の名所は鶴見園 園の中には温泉も 歌劇もあれば九州の 宝塚とも申します」

 また、新民謡「別府八景」の中にはその風光明媚な様子と、レビューの賑やかさが唄い込まれています。

新民謡「別府八景」より

〽花と月雪ゃ 鶴見ヶ丘よ 続く松原 海ゃ霞む
〽かすむ人波 浮き立つ歌劇 ジャズで花咲きゃ いつも春

(別府名所)鶴見園

 なぜにこの写真を選んだのか疑問符がつく絵葉書です。これを見ても、何が何やらさっぱり分かりません。奥の通路の欄干のところに男性が3人立ち、何かを見物しているように見えます。湯気がもうもうと立ち込めている様子から、或いは、園内に小さな地獄があったのかもしれません。

 

○ 鶴見園の唄について

 最後に、鶴見園の唄を3曲掲載しておきます。このうち「鶴見踊り」は女優歌劇で唄われた小唄で、お座敷風の簡単な節ですから人口に膾炙し広く親しまれました。

新民謡「鶴見踊り」
〽行って御覧よ鶴見ヶ丘へ 別府名所で名も高い
〽行って御覧よ鶴見ヶ丘へ 下は極楽、上地獄
〽行って御覧よ温泉プール ほんに好いぞえ鶴見園
〽行って御覧よ鶴見の池へ 二人揃うて晴れ姿
〽行って御覧よ鶴見ヶ丘へ 煮える湯の中、鬼がすむ
〽行って御覧よ鶴見の眺め 関や国東、伊予までも
〽噂よいぞえ鶴見のお湯は 中の歌劇はさらによい

唱歌「鶴見園の歌」
〽春の遊びは鶴見ヶ丘よ 一目千本桜の名所
 花にそびゆる展望台や 呼べば答えん観海寺
 鶴見おろしのそよそよと 空に知られぬ花吹雪
 鶴見ヶ丘の秋の色 遠く見渡す四国路や
 近くは鶴見・扇山 高崎山も目の前に
 湯煙のぼる山々や もみじ織りなす花の原
 行って遊ばん鶴見ヶ丘へ いでや遊ばん遊園地

唱歌「鶴見園歌」
〽大和心の雄々しさを 何に喩えん桜花
 鶴見ヶ丘に咲く花の 濡れて色増す若緑
 千歳を契る同胞と ともに励まん我が使命
〽豊坂昇る旭影 円の月を仰ぎつつ
 国東かすむ豊後灘 高崎山や佐賀関
 尽きぬ眺めも幸多く ともに鍛えん我が心
〽赤き心は夕映えの 紅葉と燃ゆる我が胸に
 謙譲特に備えつつ 平和の園も永久に
 常盤木代々と光あり ともに研かん我が姿
〽鶴見ヶ嶽の雄々姿 扇ヶ山のその姿
 夕日うすづく霊峰の 麓に屯す姉妹と
 微笑む心楽しげに ともに誇らん我が団欒

 

今回は以上です。次回より、いつもどおりの内容に戻ります。西真玉地区の名所旧跡を予定しています。

過去の記事はこちらから