大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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別府・浜脇の名所めぐり その1(別府市)

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 このシリーズでは別府市のうち旧別府市(旧浜脇町と旧別府町の区域)を巡ります。初回は河内谷(こうちだに)からスタートして隠山(かくれやま)を目指します。やや長くなりますが、まとめて紹介します。

 

1 河内谷

 浦田の修福寺から河内バス停付近に上がる細い坂道があります。この道はたいへん狭いので今は地元の方以外は通行しませんが、県道51号の金毘羅山トンネルが開通する前は抜け道で利用する方も多く、すれ違いに往生したものです。この道の上がりはな、道路端に名所案内の立札がありまして、そこから渓谷沿いに遊歩道が伸びていて奥には滝もあります。こちらは駐車場がなく、道も狭いのでどこかの駐車場に停めて歩いて訪れましょう。

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 市街地にほど近いとは思えないような渓谷の風景に、ほっといたします。でも、昔はもっと風情があったそうです。案内板の内容を転記します。

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河内渓谷

 昔、この谷は堂籠谷(どうごもりだに)を呼ばれる幽玄なところであった。この谷には「お清さん」の悲しい物語が伝説として残されている。かつては別府八景にも比喩される美しい渓谷で、どんこ、ふな、うなぎをはじめ川えび、はぜなどが豊かであり、初夏は蛍の乱舞、夏は水遊びの子供達で賑やかであった。
 昔からこの地区の子供たちは、この川から心の宝物を沢山貰って成長したのであるが、昭和43年、51年の大雨で川の様相が一変し昔の面影が失われた。

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 一般には河内谷(こうちだに)と呼んで親しまれておりますが、確かに訪れる人は年々減り、遊歩道も荒れ気味のように思います。ただし、これより上流の田んぼや水路の落て水などが混じっていると思うのですが、水が濁ったりゴミが浮いたりはしていません。下流の渓谷としてはきれいだと思います。「お清さん」の話は後ほど紹介します。

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 谷の奥詰めにある滝で、「鬼女ヶ淵の滝」とか「裳裾の滝」と呼ばれています。前者はお清さんの民話に由来する呼称で、後者は「鬼女ヶ淵」の響きが凄まじいので観光向けに後からつけた名前でありましょう。落差の低い小さな滝ながら周囲の景観も相俟ってそれなりによい雰囲気です。この滝壺が「鬼女ヶ淵」で、昭和51年の大水で岩が落ちてきたりして浅くなってしまいましたが、それ以前は深うございましたので滝上から飛び込み遊びをする子が多かった云々を知人に聞きました。また、遊歩道沿いにはたくさんの防空壕がございまして、今は封鎖されておりますが昭和30年代には子供の遊び場になっていたそうです。

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鬼女ヶ淵

昔、別府の町の分限者、幸右衛門の一人娘にお清あり。蝶よ花よも何をかや、次第に容貌優れで、齢重ねて結綿大振袖もいよいよ面相醜ければ世を儚みて、浦田の地蔵参りを慰めに十九の春を迎えた。父母は親類縁者頼りての婿選び、縁談いずれも相成らで、娘お清は涙に暮れていよいよ地蔵の信心深く、二十七の夢枕に現れたる菩薩に身を捧げんの決心にて、世のため人のため心願かけて地蔵参りも昼夜を知らず。六月半ばの丑の刻、月光を身に受けて川端道を歩くお清が姿あり。浦田の地蔵を拝みて向かうは河内谷、飛び石伝いに立つ崖口は底知れぬ暗がりであった。それをも恐れで櫛笄を岩に置き、じょうり揃えて南無地蔵尊頓生菩薩を一声に身投げの淵には、再び娘の姿なし。それと聞くより、魚釣りなんぞと淵に立てば鬼女の出るとて祟りを懼れた村人の頼みに、修福寺業界禅師が観音経を上げたが最後、お清の霊も淵に沈みて鬼女の姿は再び現れず。

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 物語風の文体で書いてみました。これがお清さんの話です。崇りを懼れた人の中には、二十七にもなって婿がないなどと悪口を言った人もあったかもしれません。とかく昔の世の中は、ある意味では生きにくい世間でありました。冒頭の写真は、滝の近くに立つお不動さんです。


2 新貝橋

 上河内経由で県道51号を鳥越峠方面に進みます。この道は改良著しく、内成までの道がずいぶん近くなりました。昔は右に左に折り返しながら屋敷をかすめて細道をたどり、その道をバスがのんびりと走っていたのも懐かしい思い出です。

 隠山入口のバス停を目印に右折しますと、昔の面影を残す細い道になります。その道の左側に壊れかけた石橋が残っています。

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 この石橋を新貝橋と申します。新貝は小字で、新開と同義と思われます。この写真は10年以上前に撮ったもので、映りが悪いのですが今はこれよりもさらに破損が進んでおり見る影もありませんので、やむを得ず古い写真を載せました。この橋が現役であった頃には、車は上がれなかったと思います。

 

3 柳の棚田

 新貝橋あたりから、右側の対岸に見事な棚田が広がっています。この急傾斜にあってはコンバイン等が入らないのでしょう、今では休耕田ばかりになっています。

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 内成の棚田には到底及びませんけれども、こちらもなかなかの規模で、柳部落から田の口部落にかけて広範囲に亙っています。石垣をついて棚田を造成した昔の方の苦労は並大抵のものではなかったと思われます。しかも、単に段々をこしらえるだけではなくて、水が行き渡るように考えなければならないのですから。こういった棚田は田越しに灌漑するのを常として、上から順々に水を落としていきますので田植前など水の番も大変であったことと思います。

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 先の方で右に折り返せば、棚田の上を通って鍋部落に下ることもできます。海に向かって落ち込んでいくような地形で、朝焼けの時間帯には写真よりもずっとよい風景が見られます。

 

4 隠山の知恵地蔵

 柳の棚田をあとに、道なりに隠山(かくれやま)部落まで上がります。隠山は平家の落人伝説のあるところでございまして、市街地からほど近いとは思えない長閑な風景の中に数多くの石仏が残っています。また紫陽花が多く植えられていて、花の時季にはちらほら訪れる方もあるようです。隠山に入ってまず目につくのが、部落手前の道路端に並んでいる知恵地蔵です。

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 説明板がなく詳しいことは分かりませんでした。おそらく向かって右の、比較的新しいお地蔵さん3体が知恵地蔵なのでしょう。その並びにはお弘法様などもございまして、昔、どなたも歩いて往来されていた頃には盛んにお参りがあったことと思います。今もお供えが上がっていて、近隣の方の信仰が続いているようです。

 今は、このお地蔵さんのところから右に折れて、車道を上がります。旧道(徒歩のみ)はここから左に入ります。西国三十三所にお参りしたいので、旧道を上がります。車は、1台であればお弘法様の前あたりに停められます。

 

5 隠山の寄せ西国

 知恵地蔵から左に上がって旧道を進みます。車どころか人が歩くのがやっとの幅しかありません。問題なく通れますが草が生えていますので、この道を通るのは秋か冬がよいでしょう。道なりに行けば、旧道に沿うて崖に穴をほいで仏様を並べてあるところに出ます。こちらが隠山の西国三十三所(写し霊場)で、寄せ西国とでも言った方がよさそうなほど一つひとつが近接しており、簡単にお参りできるようになっています。

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 仏様は道よりもやや高いところに安置されています。いずれも状態が良好です。道ばたに仏様を並べるだけでもよさそうなものを、わざわざ崖に龕をこしらえて安置しているのは、破損しないように少しでも鄭重にお祀りしたかったのでありましょう。

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 台座のところには、札所々々の御詠歌が刻まれています(文字が薄くなっていて写真では分かりにくいと思います)。昔、千人参りなどの際には順々に御詠歌をあげていたのでしょう。

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 こちらがほぼ中央の仏様で、台座に「西国三十三所」と彫ってあります(三十は、実際は一と川を重ねた字です)。

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 このように三十三所の仏様がずらりと並んでいて、壮観でございます。こちらは簡単に訪れることができますので、お参りされることをお勧めいたします。知恵地蔵のところから旧道を上がるのが大変なら、隠山部落の中ほどから下ればすぐです。入口のところに標柱がありますのですぐ分かると思います。

 

6 山王社

 西国三十三所の写し霊場を過ぎて、隠山部落の方に旧道を少し進んだところから左に折り返して登り、霊場の崖上を尾根伝いに行った突端に山王社がございます。

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 こちらが山王社です。山王権現日吉神社日枝神社など名称は種々ありますがみな同じもので、大分県内でも方々にございます。こちらは小規模なれど、屋内に珍しい石造物が残っています。

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 小さな石板に2基の国東塔が浮き彫りになっています。これは珍しい。実物の塔を造立するよりは手間も費用も少なくて済んだことでしょう。もともとは、どのような形で安置されていたのでしょうか。どこかの崖に嵌まっていたのか、または最初から屋内にあったのか等、いろいろと想像してみましたが確からしい答えに行き当たりませんでした。

 

7 隠山の金毘羅様

 山王社から下って、旧道を辿りますと隠山部落の中ほどに出ます。左折して、車道を歩いて行きます。家並みが途切れて、左側に高速道路を見ながらさらに進みまして、左折して高速の下をくぐります。反対側に出たら左折して、高速道路を左に見ながら側道を行きますと、金毘羅さんの参道入口に出ます。おそらく高速開通以前は、こんな回り道をしなくても部落中心部から直接上がる右があったのではないでしょうか。

 参道は長い階段です。草やイドロ、蜘蛛のエバで通行に難渋しますので、お参りは秋か冬がよいでしょう。長い長い階段を登り詰めますと小さな広場に出て、その奥に金毘羅さんの祠があります。

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 今は草ぼうぼうで寂しいところですけれども、祠の前からの眺めは見事です。昔はここから讃岐の金比羅さんを遥拝したのかもしれません。

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 訪ねた時間帯が悪くて薄暗い写真になってしまいました。雲一つない冬の日や秋の夕暮れなどは、もっとよいでしょう。速見が浦を眼下に向こうは鹿鳴越の山々、そこから右に辿れば国東半島です。

 

今回は以上です。