大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

豊岡の名所めぐり その1(日出町)

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004257j:plain

 日出町豊岡は昭和40年代以降、辻間団地の造成や国道10号バイパスの開通により景観が大きく変わりました。平成5年頃までは国道沿いにいくつかのドライブインがありましたので行楽等の途中に立ち寄った想い出のある方も多いことでしょう。道の駅やコンビニエンスストアが花盛りの昨今、旧来のドライブインを見かけることがほんに少のうございます。豊岡地区におきましても懐かしいドライブインの風景はなくなってしまいましたが、山間の小部落に見られる棚田や古いお寺など、懐かしい風景もまだまだ残っています。著名な名所としては経塚山、魚見桜、小浦湧水、山田湧水、鹿鳴越(かなごえ)の峠道、展望所「ポケットパークひじ」等がございます。ほかに豊岡駅の古い駅舎と桜、鮎帰の滝、島山、亀峯神社、大山積神社、法花寺(ほけじ)の花公園や法花寺跡に関連する史蹟等、観光地とまでは言えずとも名所旧跡が目白押しの地域です。

 あれもこれも紹介したやと思えども手元にろくな写真がありません。それで、ひとまず今井部落の堂様周辺の石造物と、大山積神社、それから法花寺跡周辺の名所を紹介します。特に法花寺跡周辺はみなさんにお勧めしたい、名所中の名所です。

 

1 今井の石造物(堂様)

 冒頭にて豊岡地区の名所旧跡を羅列しておきながら、いきなりマイナーな場所からのスタートになります。わたくしはいろいろな石造物の中でも庚申塔には特に興味を持っておりまして、普段通らない道を通るときには庚申塔がないかいつも気を付けているのですが、豊岡地区ではなかなか思うように見つかりません。初めて見つけた豊岡の庚申塔が、今井部落の堂様の坪に立つ塔です。それで、何はさておき庚申塔を紹介したかったので、豊岡シリーズの先陣を切って今井部落の石造物を掲載することにしました。

 小浦の三叉路から旧国道をたどって豊岡駅を過ぎますと、マルショク豊岡店があります。その角を左折して、ほどなく左カーブになるところを右折(直進方向)します。坂道を登り詰めた突き当りを左折すれば道が狭くなります(普通車までなら可)。道なりに行けば、参道の石段が見えてきます(冒頭の写真)。石段の下は狭いので、車はどこか邪魔にならないところに停めて歩いてくるしかありません。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004300j:plain

 石段を登って振り返った写真です。お地蔵様や庚申塔が参道の両脇に並んでいます。庚申塔はあとで詳しく紹介します。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004304j:plain

 狭い境内の隅にはたくさんの五輪塔が並んでいました。草に埋もれ気味になっていましたが、きっと訪ねた時季が悪かったのでしょう。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004306j:plain

一字一石塔

 安政7年の銘があります。凡そ170年が経過しているとは思えない、堂々たる立ち姿でございます。これほど立派な一字一石塔は、近隣ではなかなか見かけません。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004309j:plain

青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏

 豊岡地区で初めて行き遇うた庚申様ですからただでさえ嬉しいものを、そのデザインのおもしろさにいよいよ嬉しさも極まりて思わず手を叩いてしまいました。日月の下に棚引く横雲が重なり合うて1本の波線になっているのが洒落ていますし、主尊の火焔光背の表現やすらりとした立ち姿、童子が右と左で所作を変えているのもよいと思います。しかも童子はめいめいに小さな台に乗っていて、殊に主尊は雲に乗っているように見えるものですから、まるで三尊が宙に浮いているようにも見えてまいります。さてもありがたいお姿ではありませんか。2匹の猿は人間のような立ち姿にて、まるで空の上から降臨する主尊を見上げるかのように首を傾けています。雄鶏の尾羽を猿の前に重ねて表現してある点にも、対称性を崩して少しでもいきいきとした雰囲気を表そうとした石工さんの工夫が感じられます。

 この庚申塔は、一見してインパクトのある造形ではありません。けれども諸像の一つひとつに注目してみると細かいところまで丁寧に表現されていますし、全体として見たときのデザインの妙がございます。秀作といえましょう。寛保2年、凡そ280年前の塔です。

 

2 今井の石造物(山裾)

 堂様から下の道路に下って辺りを見回しますと、気になるところが見つかりました。今からその場所を紹介します。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004400j:plain

 道路端からの写真です。山裾に小さくトラックが写っています。その右の方、大きな木のねきに石造物らしきものがかすかに見えました(写真では分からないと思います)。畑の隣の砂利道を早速上がってみました。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004408j:plain

 こちらが下からかすかに見えた石造物です。ちょうどこの木の向こう側が曲がり角になっています。草ぼうぼうになっていましたが下からではよう分かりませんで、やっとこさで段差を上がりました。遠目では、左の塔は石幢かとも思いましたがどうも違うようです。火袋のところが壊れてしまった石灯籠なのかもしれません。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004412j:plain

 御室の中にはよく分からない石造物が収められています。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004417j:plain

 これはいったいどうしたことでしょうか。風化摩滅が著しく、一見して何が何やらさっぱり分かりませんでした。はじめ、上の丸い部分がお顔なのかと思うたものの、よくよく見れば下の部分に頭が失われた坐像が刻まれています。そうであれば上の丸い部分には梵字が刻まれていたのかもしれません。なんとも風変わりな造形でございます。きっと何らかの仏様なのでしょう。この石造物について何かご存じのことやご意見があれば教えていただきたく存じます。


3 大山積神

 今井部落からマルショク豊岡店まで戻り、旧国道を少し日出方面に進みます。小さな橋を渡った先を左折して、川べりの道を上っていきます。突き当りを左折して橋を渡り、白玉稲荷を左に見て右折し、突き当りを左折すればあとは一本道です。車は鳥居の近くに停められます。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004500j:plain

 参道から鳥居を振り返った写真です。遥か麓に海が見えます。ここまで車で上がって来られるので、簡単にお参りができありがたいことです。車道ができるまではお参りにも一苦労であったと思われるような場所です。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004504j:plain

 ご覧くださいこの石垣を。さても見事なものではありませんか。まるでお城のような造りになっているのには理由があります。

 こちらの大山積神社は、元は石権現と呼んだそうです。大化4年、今から1370年以上前に、辻間村の長の夢枕に神火が現れまして、その方角にあった大石の蔭に産土神の祠を建てたのが元と申します。それが江戸時代に辻間村が森藩(玖珠)の飛地になった際、神社の石垣を3年がかりで改修し今の姿となりました。

 それと申しますのも、森藩は石高の関係で築城を許されませんでしたので、陣屋(末廣神社)や大山積神社にお城のような機能を持たせたのです。神社を改築する体で工事をすることにはお目こぼしがあったようです。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004508j:plain

 寸分違わず切石を重ねた精巧な石垣には、紙切れ1枚の隙間もありません。石段の作りも見事で、しかも登り切ったところで鉤型に折れ曲がっている造りもいかにも山城のそれでございます。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004516j:plain

 境内からは別府湾が一目、素晴らしい眺めでございます。きっと日の出の時間帯はなおよいでしょう。ここから彼方を見遣れば、暘谷城址が見えます。大昔に日出で流行った小唄に、〽国は小そうでも木下様は 城の下まで船が着く という文句がございました。これは岡崎の小唄「五万石」の替唄の範疇を出ないものですが、ともかくも、国は小そうでも木下様(日出藩)はお城を持っていたのです。穿った見方をすれば、森藩への当てこすりとも思えて来るような文句です。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004520j:plain

 こちらが今の大山積神社です。境内はいつもこざっぱりと、手入れが行き届いています。ほんに気持ちのよいところです。大山積神社は三島神社と同義で、先ほど申しました森陣屋の末廣神社も同様です。石権現の境内に大山積神社を勧請したのは、森藩による石垣改修のときであったのかもしれません。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004524j:plain

 摂社が並んでいます。端に立つお不動様がなかなかよいお姿でございます。神仏習合の名残が感じられます。この前から大山積神社の拝殿横を通って裏に回り込めば、大石が積み重なっています。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004540j:plain

 ものすごい迫力の大岩で、大昔の方がこちらを権現様となしたのも納得の、神秘性を帯びた景観でございます。岩の表面の細かな傷・窪みは、神様が馬に乗ってこの岩に降り立ったときの蹄の跡と申します。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004543j:plain

 岩権現様の祠には、しっかりとシメがかかっていました。信仰が続いているようです。

 

4 法花寺の花公園

 大山積神社から下って道なりに進み、左折します。通山部落辺りまで来ますと、いよいよ棚田が目立ってまいります。この辺りは、新しい家も建ちましたが豊岡地区の中では昔の景観をよく残す地域です。登り詰めたら法花寺(ほけじ)部落で、速見広域農道に突き当たります。ここを直進しても行けますがとても狭いので、一旦左折して田んぼの先を右折してください。

 高速道路の高架をくぐってすぐ、右側にゲートボール場があります。この周辺が、近年近隣の方の手により花公園として整備されました。特に田植前後、菖蒲や紫陽花の時季は見事です。また、この地は浅葱斑の休息地としても近年名を馳せています。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004611j:plain

 うまく写真にとれませんでした。浅葱斑は、その名前とはうらはらに浅葱色ではありません。地味な色合いですが、文様が美しく人目を引きます。この蝶は秋になると南の島に渡って、冬を越して暖かくなるとまた戻ってきます。その移動距離は1,000kmを優に越し、1日に100kmも200kmも移動するそうです。こんなに長い距離を高速で、しかも道に迷わずに移動できるとはどうしてでしょう。わたくしは生き物に明るくないのでその原理はさっぱり分かりませんけれども、ある種の神秘性や生命の力のようなものを感じます。法花寺花公園では、浅葱斑のために藤袴を植えるなど、近隣の方が環境整備に努めて下さっています。一般の遊覧者のためのパンフレット等も揃えてくださっており、ほんにありがたいことでございます。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004620j:plain

 この法花寺花公園は、今から紹介する法花寺跡周辺の仏跡探訪や経塚山へのトレッキングの拠点としても利用できます。立派な案内図がありますので、内容をしっかり把握しておきましょう。花公園から左に上がれば経塚名水の水汲み場がありますので、ちょっと立ち寄って水を飲んでみるのもよいと思います。

 

5 法花寺跡

 法花寺部落にかつて存在した法花寺という寺院はとうに廃寺となっております。その規模や法灯の途絶えた年代については不勉強で存じておりませんけれども、その遺構の距離感から、それなりの規模を誇ったのではないかと推測しております。法花寺跡に関連する史蹟のうち、今回は十三仏奥の院、水神社、釋迦堂を紹介します。

 

(1)十三仏

 花公園から右方向に進んで、突き当りを左折します。この先にも車を停める場所はありますが急傾斜の細道なので、車は花公園の辺りに置いて歩くことをお勧めします。舗装路を喘ぎ喘ぎ登れば、道端に道案内の看板があります。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004758j:plain

 ここから十三仏まで歩いて10分ほどです。この辺りから左の方に水神社が見えますが、そちらは後で紹介します。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004803j:plain

 道なりに登れば、左に友安川の砂防ダムがあります。この対岸にも別の道があります(後述)。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004808j:plain

 ご覧の通り軽自動車なら問題なさそうな道幅ですが傾斜が急ですし、転回に難渋するので車の通行はお勧めできません。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004814j:plain

 十三仏に着きました。岩壁のものすごさに圧倒されます。この左手には、雨の後には滝が落ちているようです。残念ながら当日は水が涸れていました。この崖に点々と仏様が安置されています。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004818j:plain

十三仏建設寄附芳名

 大正13年の銘があります。もしかしたらこちらは、法花寺が廃寺になった後で開かれた霊場なのかもしれません。これだけの寄附が集まったのですから、かつてはよほどの信仰を集めていたと思われます。

 十三仏とは死後の追善供養(初七日から三十三回忌)を司る仏様で、順に申しますと不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日)、文殊菩薩(三七日)、普賢菩薩(四七日)、地蔵菩薩(五七日)、弥勒菩薩(六七日)、薬師如来(四十九日)、観音菩薩(百箇日)、勢至菩薩(一周忌)、阿弥陀如来(三回忌)、阿閦如来(七回忌)、大日如来(十三回忌)、虚空蔵菩薩(三十三回忌)です。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004828j:plain

 ものすごい立地でございます。残念ながら傷んでしまった仏像もあります。十三体全部を見つけることはできませんでした。破損して面影をとどめない仏様もあるのかもしれません。

 さて、ここから右に折れて急な山道を登り、この岩壁の上までいきます。半分までは石段になっています。石ころが多くて滑りますので通行に注意を要します。特に、下の人に石を落としてしまうと危ないので、複数名で登るときには必ず前後の間隔を十分に空けてください。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004837j:plain

 坂道の半ばから細い岩棚伝いに仏様のところに至る道があります。鎖も何もなくたいへん危ないので、近寄らない方がよいでしょう。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030004903j:plain

 上半分は崖にへばりつくようにして鎖渡しで登ることになります。左側は切り立った崖になっていますので注意を要します。落ちたら真っ逆さま、大怪我では済まないかもしれません。しかし手掛かり足がかりは十分にありますので、端に寄らないように通れば問題ないレベルです。鎖を持たなくても通れそうですが、転落防止のためにしっかり持ちましょう。


(2)奥の院

 十三仏の鎖場を無事登り着いたら、道が二股になっています。右は帆足万里先生の塾跡へと続く道で、奥の院に行きたいときはこれを左にとります。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030005002j:plain

 まさに谷川道で、これで合っているのか不安になります。雨が続いた後は水が流れて通りにくくなるかもしれません。ほんの少し奥に行けば石段が見えてきます。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030005008j:plain

 奥の院へと続く、人が1人分の幅の石段です。ところどころ傷んでいますが踏面が斜めになっているところはなく、安全に通行できます。なかなかよい雰囲気ではありませんか。この程度の傾斜であれば斜面にただ石を順々に積み重ねていくだけでもよさそうなところを、こちらでは左右に並べた縁石が土留の役割を果たしています。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030005015j:plain

 奥の院に着きました。こちらは日出四国の二十番札所になっています。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030005023j:plain

 御室の笠の軒口が右と左で違います。この大岩の蔭にただ仏様を安置するだけでもありがたいものを、このように立派にお祀りしてありますのでいよいよありがたい感じがいたします。向かって左の御室の左側には、岩を四角く彫りくぼめたところがあります。かつては堂様があったのかもしれません。

 お参りをしたら来た道を戻ってもよいのですが、今回の探訪時にはこの先から左に折れて釋迦堂に下りる道(花公園の白い看板を参照してください)を通ってみようと思い立ち、先に進みました。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030005029j:plain

 奥の院裏の大岩を右から巻いて上がれば、ほどなく写真のような立岩があります。これも何らかの信仰の対象であったかもしれません。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030005038j:plain

 道なりに行けば、この分かれ道に出ます。右は帆足万里先生の塾跡へ、直進は経塚山へ、左は釋迦堂へ。ここから経塚山に上がる道は、昔は法花寺の修行僧が朝な夕なにお山詣でに通うた道であったそうですが長年荒れていたものを、近年トレッキングルートとして再整備されました。今回はこれを左にとって下っていったわけですが、思いの外道が悪く、崖をへつってようやっと下ったかと思えば谷筋はものすごい藪です。赤テープの間隔が遠いのでどこかで道を誤うたかと思いまして、それはもう藪の中から斜面から右に左に、また行きつ戻りつしながら正しい道を捜したものの、とうとう分かりませんでした。イドロの繁る谷川道で手も足も一面傷だらけになりまして、あまり深入りして道に迷えば大事ぞと諦めてまたあの崖道を登り、やっとの思いで奥の院まで戻って十三仏の鎖渡しを下った次第です。

 

(3)水神社

 十三仏からの下りで立ち寄りました。軽自動車であれば問題なく通行できる道ですが、棚田の風景を楽しみながら歩いて訪れることをお勧めします。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030005504j:plain

 案内板を見る限りでは、釋迦堂の先に水神社があるように書かれています。しかも石垣の手前には天神様と思われる祠がありますので、後ろの建物も水神社ではなく天満社なのではないかとも思ったのですけれども、この先にそれらしい神社はないようなので、おそらくこちらが水神社なのでしょう。

 

(4)釋迦堂

 水神社を過ぎて道なりに行きますと、右側に釋迦堂参道の石段があります。車を停める場所はありません。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030005524j:plain

 一つのほころびもない、立派な石段です。「宝亀法華寺」の看板があります。法花寺、法華寺、どちらの用字が正しいのでしょうか?

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030005530j:plain

 石段を登れば、このように凹凸の目立つ古い石畳が続いています。歴史を感じる道でございます。この横の畑地は、かつての坊跡であるのかもしれません。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030005535j:plain

 釋迦堂に着きました。境内が銀杏だらけで、踏まずに近寄ることはどう考えても無理でしたので遥拝に留めざるを得なかったのが残念です。

f:id:tears_of_ruby_grapefruit:20211030005539j:plain

 境内には宝篋印塔が1基残っています。銀杏を踏みたくなかったので正面からの確認は諦めました。葉が落ちる頃には、よい雰囲気になることでしょう。

 

今回は以上です。長くなってしまいました。大山積神社までで切って2回に分けた方がよかったような気もしますが、盛りだくさんの記事になったので自分なりに満足しています。