大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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竹田津の名所めぐり その8(国見町)

 今回は大字鬼籠および大字竹田津の一部を掲載します。今回紹介する竹ノ内の庚申塔はたいへん豪華で、保存状態もすこぶる良好です。このシリーズの目玉のひとつといえましょう。

 

24 普門寺の石造物

 岩洞のお弘法様から円石(えんせき)組を抜けて、鬼籠下バス停の辻を右折します。鬼神太夫(きしんでえ)組入口を過ぎ、道なりに小さな橋を渡る直前を左に行きます。この辺りは高野組で、すぐ前が普門寺です。車は空き地に停めます。

 道路端には鳥居が立ち、その横には石灯籠やお手水が並んでいます(冒頭の写真)。奥には石祠が横並びになっています、こちらは、明らかに普門寺と地続きであり、一体のものであると考えられます。六所権現のような位置づけなのでしょうか?シメがかかり、信仰が続いていることが分かりました。

 石祠の後ろには宝篋印塔や庚申塔、各種石仏など数々の石造物がたくさん寄せられています。一段高いところにきちんとお祀りされています。しかしその数に比して用地が狭いものですから、後列のお塔などは細部の見学に難渋する場合があります。

青面金剛6臂、2童子、2猿、2鶏、邪鬼、4夜叉、ショケラ

 夜叉まで揃うた、たいへん豪勢な庚申塔です。枝に隠れてしまい、全体を上手に撮影することはできませんでした。上から順に見て行きます。

 まず笠の立派なこと、急傾斜の入母屋のお屋根には、お宮さんの屋根を見たような豪華さがあります。塔身を見ますと、日輪・月輪の下部には横雲が棚引き、そのすぐ下から諸像の収まる枠が始まります。碑面がだんだん荒れてきて、細かい部分は見えづらくなってきています。でも輪郭は、今のところくっきりとしています。主尊は腕を複雑に曲げ、体を少し左によじらせて立っています。童子は微妙に内向きにて、主尊に恭しく仕えています。

 丸顔の邪鬼は四つん這いになって、主尊に踏みつけられるばかりかその頭を、異様に長い三叉戟の下端で突かれているように見えました。さてもお気の毒なことではありませんか。夜叉は立つやらしゃがむやら、みんな所作を違えており動きがあって素晴らしい。猿や鶏は、夜叉と邪鬼の間の狭いスペースにごく小さく彫ってあります。

 数基の宝篋印塔が横並びになっている中で、もっとも状態が良好なものがこちらです。それなりに大きさもあり、坪に寄せられた石造物の中でも最も目を引くことでしょう。相輪は特に状態がよく、反花にもほとんど傷みが見られません。隅飾りの文様や格狭間もよう残ります。塔身は風化摩滅が進み角が取れてきています。

 おもしろいのは、格狭間のある段と基壇との間に孔がほげている点です。間と申しますか、基壇側が欠けています。納経のための穴は、普通こんなところには空いていないように思います。或いは、別のお塔の残欠をもって基壇に代えた可能性があります。

青面金剛6臂、2猿、2鶏

 無残にも半ばで折れてしまい、残部のみが安置されています。これは人為的に壊されたのではなく、以前大水で流されてしまったときに壊れたものです。のちに上部も見つかり、普門寺より下手の田の畔に安置されているとのことで、少し捜してみましたが見つけられませんでした。珍妙な姿勢で主尊を慕う猿のなんとおもしろいことでしょうか。壊れる前の姿を見てみたかったものです。

 すぐ横には双体道祖神と思しき対の像を彫った碑が数基並んでいます。蓋し近隣の道路端から移されたものでしょう。

 先ほどの宝篋印塔の並びには2基の宝篋印塔、その隣には宝塔も立っています。このうち左に写っている宝篋印塔は、相輪の破損以外は状態が良好です。それに対して中央に写っている宝篋印塔は風化摩滅が甚だしく、歪みも出ています。

 それにしても、国東市のウェブサイトに載っている市指定文化財の普門寺の国東塔3基は、どこにあるのでしょうか。敷地内には見当たりませんでした。昔の普門寺は今よりも土地が広かったのか、あるいは坊跡にあるのか定かではありませんが、きっと近隣にあるはずです。また捜しに行ってみようと思います。

 

25 竹ノ内の石造物

 普門寺を過ぎて、道なりにカサへと進んでいきます。次の村が前後(ぜんご)組で、三叉路のところに庚申塔などが並んでいます。道路端なのですぐ分かります。この場所の字は竹ノ内です。なお前後組には、こちらのほかに立中(たっちゅう)の墓地入口にも庚申塔があります。

 庚申様の並びには石の御室の中にお地蔵様が並んでいます。一時期藪に埋もれ気味になっていましたので、今はどうなっているかなと心配していました。久しぶりに訪れたら藪は払われ、横にはたくさんのお花が植わっており、近隣の方のやさしい心根が覗われて嬉しくなりました。この一角は、国東半島を象徴する風景としてわたしの心の中にずっと残っています。百日紅の花の頃は特によいでしょう。

青面金剛6臂、2童子、3猿、3童子、4夜叉、鬼面!

 まことほんとに、見ればみるほど素晴らしい庚申塔です。上から見て行きましょう。まず笠の立派なお細工が目を引きます。これほどの笠は、庚申塔のそれとしては近隣在郷でもまれであると存じます。入母屋の妻に文様を施し、幅広の千鳥破風は二重垂木の端がくるりと渦巻をなしています。その破風の頂点には鬼瓦でしょうか?鬼面がさても恐ろしげなお顔で睨みをきかしています。破風の文様もよう残っています。

 日輪・月輪のぐるりには牡丹崩しの風情の瑞雲が取り巻き、その外側が丸く膨らんでいます。その膨らみの下部から塔身の縁取りを柱となして、ちょうど瑞雲の下部が幕をさげたように円弧をなしている点など装飾性を極めます。主尊はおかっぱ頭で鬢をふくらまし、白目を剥いて口をキリリと結び、ほうれい線の目立つ顔つきには厳めしさがにじみ出ています。6本の鵜でをカクカクと曲げ、異常なる長さの三叉戟を杖となし、索の縄目も細やかに表現されています。横に控える童子は一つ髷で、丈の長い羽織から覗かせた手を胸前で組みじっと立っています。よう見ますと主尊は蓮台に立っているのに、童子は宙に浮いています。ハの字になった足先の表現がおもしろいではありませんか。

 猿は左右が横向きで腰を曲げ、中央はガニ股で正面を向いています。見ざる言わざる聞かざるのおどけた所作がおもしろうございます。鶏もまた動きのある表現で、全体的にいきいきとしています。夜叉は版で押したように似通うた表現でずらりと横並びになっており、端から端まで窮屈な立ち姿です。碑面いっぱいに像を配した、にぎやかで豪華な庚申様。しかもわたしの背丈より高い、大型の塔です。これは素晴らしい。しかもよう見ますと、台座の正面にも細やかな文様を施しています。幅いっぱいに蓮の花が彫ってあり、何から何まで行き届いています。接合部は補修されているので倒壊の心配もありません。お供え用のお皿がさりげなく置いてあります。紀年銘は確認できませんでした。

 

26 元宮遺蹟

 竹ノ内の庚申塔のほかにも、鬼籠の谷には立中、畠、荒谷にも庚申塔がありますが適当な写真がありませんので今回は省きまして、高地へとまいります。元来た道を後戻り、鬼籠中バス停の辻を左折します。道なりに行って坂道を上り、「鷲ノ巣登山口」の標識に従って左折します。ここから概ね尾根筋に沿うて、鷲ノ巣方面に上っていきます。この道はだんだん舗装化が進んできているものの、ところどころ未舗装のところもあります。路面は概ねフラットですがもし行かれる場合には運転に気を付けてください。

 ずっと上っていくと、左側の小高いところに大岩がいくつか並んでいます。

 このように説明板が立っているのですぐ分かります。こちらは、麓に鎮座まします武多都社の元宮との伝承があります。巨石信仰の面影を残し、国東半島の歴史を今に伝える貴重な史蹟です。

 説明板の内容を転記します。

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県指定史跡(昭和35年3月22日指定)
竹田津元宮遺跡
所在地 大分県国東市国見町鬼籠
所有者又は管理者 国東市
年代 平安時代

 元宮遺跡は、竹田津湾を一望におさめる景勝の地にあります。
 遺跡は2か所にあります。ひとつは東西3か所に立石があり、その周辺には自然石の集合があります。これら立石の最大のものは、高さ2.4m、幅1.6mの方形状の横断面をもつものです。この遺跡は武多都社の元宮であったという伝承が残されています(元宮A遺跡)。
 もうひとつの遺跡は、A遺跡から南方約100mのところにあり、中央に円錐状の高さ1.3mの立石を基点にほぼ放射状に自然石をならべ、形が円形になるように配置されています(元宮B遺跡)。
 いずれの遺跡も土師器片を包含する箇所があいr、巨石信仰を伴う平安時代の祭祀遺跡と思われます。

平成20年3月 国東市教育委員会

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 写真がないので省きますが、このすぐ上手には老子(おいご)池があります。山の中の溜池は、国東半島を象徴する景観です。

 

27 鬼籠の環状列石

 元宮遺跡を過ぎて登り詰めたところから、右方向に鷲ノ巣の登山口が分かれています。鷲ノ巣については「上伊美の名所その6」の記事の「24 鷲ノ巣」を参照してください。その分岐を見送って少し行けば、右側の緩斜面に環状列石が残っています。でも、一見してそれと分からないと思います。ですから先に説明板の図をよく見ておきましょう。

 説明板の内容を転記します。

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県指定史跡(昭和35年3月22日指定)
鬼籠列石
所在地 大分県国東市国見町鬼籠
所有者又は管理者 国東市
年代 平安時代

 鬼籠列石は、南北に長い環状で長さ南北135m、東西45mの不規則な楕円形をしており、一部人工的と思われる石組もあります。須恵器片の出土などがあることから、祭祀遺跡の可能性も考えられます。

平成20年3月 国東市教育委員会

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 入口からの風景です。ここから奥の方まで石が点々と続いています。無闇に奥に行き文化財を傷めてはならないと思いまして、進入は遠慮しました。

 道路の反対側の窪地には桜が植わっていますので、花の時季はほんにようございます。先の方には壊れた堤が残っていることから、溜池の跡と思われます。池の名前は存じておりません。荒谷の池と2段構えになっていたのではないかと考えています。

 この辺りからだんだん道幅が狭まり運転に注意を要しますが、西不動のうち大不動岩屋まで足を伸ばすのもよいでしょう(上伊美の名所めぐりその3を参照してください)。

 

今回は以上です。次回より上真玉のシリーズに戻ります。

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