大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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豊崎の名所めぐり その4(国東町)

 今回は道順が飛び飛びになります。まず大字赤松のいちばんカサにある宇土霊場を紹介したら、小畑の帝釈寺前から行入(ぎょうにゅう)本村を目指します。今回の目玉は、宇土霊場です。こちらは庶民の信仰に根差した霊場であり、六郷満山とはまた別の文脈の、国東半島の文化を端的に示す名所です。史蹟としての指定名は「仏跡」ですけれども、この呼称はあまり好きではないので(理由は後で申します)、記事中の項目名は「宇土霊場」としました。近隣では「宇土の八十八所」とか「赤松のおこぼさん」などと呼ばれています。宇土霊場は広く、今ひとつ全容を掴みかねておりごく一部しか探訪できていません。それで、昨年訪ねた場所を「その1」として項目を設けて、残りは「その2」としていつか掲載できればと考えています。

 

18 宇土霊場(その1)

 前回、岩屋の熊野神社を紹介しました。熊野神社の前の道を進んで、赤松の谷を上っていきます。大字赤松は細い谷筋の日向、陰平それぞれに小部落が点在している地域で、大きく上分と下分に分かれています(それぞれが複数の部落の集まり)。赤松上分の奥詰が京一(きょういち)部落で、ここから行入や狭間(中武蔵)に越す道が分かれています。それらの枝道に入らずにとにかく谷筋に沿うて道なりに進んでいき、人家が途切れてしばらく行くと道路左側、二股のところに説明板が立っています。

 説明板の内容を転記します。

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市指定史跡(昭和46年3月31日指定)
仏跡

 弘法大師堂を中心にした、宇土の山間のこの史跡は「弘法八十八霊場」と言われています。
 大師堂の境内地には、総高1.4mの龕を後背に、彫り出しの石造不動明王立像をはじめ、納経されたと思われる石造の「経墓」が建立されています。また宇土の山は霊場めぐりにふさわしく、石造観音像や針の耳とおし(善人のみ通り抜けることができる)、護摩焚き石などが配置され、庶民信仰が根強く浸透していたことがうかがえます。

仏跡周辺の文化財
(1)宇土弘法大師
(2)宇土不動明王立像
(3)観音様
(4)無阿弥陀仏の経文
(5)鐘の鎖
(6)針の耳とおし(巨石積み)
(7)護摩焚き石
(8)箸蔵さま
(9)鬼の背割り石
(10)鰯舟

国東市教育委員会 平成30年3月31日

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 説明板には、10の名所が記されています。この中で、4番以下はまだ行き当たっていません。興味深い項目がたくさんある中で、10番の「鰯舟」は、大字横手は古柄部落から山を登ったところにある奇勝として同じ名前の岩の存在を聞いたことがあります。古柄は宇土霊場から一山隔てた先でありますから、古柄でいう「鰯舟」と説明板の「鰯舟」は同じものであろうと推察いたしました。いつか行ってみたいのですが案内がなければ難しそうです。

 さて、この説明板の二股を左にとって、細い道を下りていきます。車の場合は、一旦右の道を少し進んで広くなったところに邪魔にならないように停めて、歩いて戻ってくるとよいでしょう。またはそのまま右の道を進んで、1つ目の角を左折して作業道(簡易舗装)を下っても霊場に着きます。どちらでもよいのですが、私は前者の道順を辿りました。

弘法大師 参道寄附

 金額から推して、戦前のものでしょう。参道の整備にお金を出した方のお名前が記してあります。末尾に「抽籤順」とあります。同一の金額の方の並び順はくじ引きで決めたようです。ここから参道(山道)を歩いていきます。

 しばらく行くと、前方に堂宇が見えてきました。参道や堂宇、境内、またお山めぐりのコースなどは、一時期非常に荒廃していたそうです。史跡の指定名が「仏跡」となっている所以かもしれません。それを惜しんで、平成半ばに地域の方々が手弁当で再整備をされました。参道の石つぶてを除去し、杉を伐採するなど大変な作業であったようです。そのお陰様で今でも、少なくとも堂宇までは安全に通行・お参りすることができます。地域の信仰が続いていることから、「仏跡」という呼称はどうも気が引けます。この言葉には、信仰が途絶えてしまっているような語感があるように思うのです。

 このように、石段もきちんと整備されています。傷んだ石段には長い年月を感じますけれども、緩みやぐらつきはありませんでした。また、境内も杉の伐採により明るい雰囲気です。

経墓

 碑が破損したところに石を咬ませてあります。この「墓」とは、一般に想像するお墓ではありません。庚申塔の銘に、稀に「庚申墓」と彫っていることがあります。その「墓」と同義で、供養に関する意味合いでありましょう。

 お堂(冒頭の写真)の中にはお弘法様がお祀りされてあります。

大師堂 市指定文化財
明治6年(1873)弘法大師150年大祭を厳修。江戸中期、文政5年(1722)勧請の銘あり。

 宇土のお弘法様は、今年で301年目です。衰微した時期もありましたが、このように長い年月を経て今なお信仰が維持されています。

 大岩に浮き彫りになったお不動様は、脚がほっそりとしています。彫りの状態が良好で、細かいところまでよう分かります。以前は鞘堂が傷み、お不動様自体も大きく傾いてしまい破損が懸念される状態でした。今では傷んだ鞘堂を撤去して立派にお屋根をかけ、像の傾きも修正されています。左右に並んでいるのは、山手に点在する新四国霊場の仏様です。番号が飛び飛びになっていることから、参道の破損ないし像の転倒などにより、元の場所に安置し直すのが困難な仏様をこちらに下ろしたのでしょう。これも、以前の鞘堂のときは大きく傾きおいたわしい状態でしたが、今はきちんと安置されておりほっとしました。

不動明王立像
明治6年不動明王650年大祭を厳修。鎌倉中期、承久3年の銘あり。

 朽ちかけた説明書をみて驚きました。こちらのお不動様は、お弘法様よりもずっと昔からお祀りされていたことが分かります。私は、宇土霊場はお弘法様(新四国)が主であると認識していましたし、おそらく多くの方がそうお考えであると思います。しかし、元はお不動様を主とした霊場であったのです。そのずっと後になって大師堂を建立し山中に新四国霊場(お山めぐり)を開いたということで、これは国東半島における弘法大師信仰の流行の過程を示唆しているように思います。

 さて、いよいよお山めぐりにかかろうと思いまして山道を辿りました。日暮れが近かったので全部は無理でしょうが、せめて説明板にあった「南無阿弥陀仏の経文」(岩肌に彫り込まれているそうです)まで行ってみようと思うたのですが、思いのほか難所つづきで断念しました。ですから、今回はお山めぐりの冒頭までということになります。

 このように、山道に沿うた岩の窪みなどに、お弘法様とお観音様が対になっています。険しいお山めぐりの道中で巡拝していくことで、本場の四国八十八所と同等の霊験を期待したものです。今やお参りは稀になっているようですが、昔はお弘法様の縁日などこの山道を多くの善男善女が歩いたはずです。

 岩棚上に仏様が並んでいるところもあれば、枝に隠れて見えづらいと思いますが舟形の龕をこしらえてきちんと嵌め込むように並んでいるところもあります。枯枝・枯葉が斜面に積もりがちで、仏様に近寄りがたくなっているところが多々ありました。

 右から廿番、十一番、十二番で、順番がばらばらになっています。しかもお弘法様と対になっていません。巡拝路を再整備した際、高いところから転げ落ちたりしていた仏様を安置し直したので元の順番どおりになっていないのでしょう。

 この先で傾斜が急になってきて、枯葉の堆積が著しく、道順が不明瞭な場面に出くわしました。そこで諦めて引き返したのですが、次に行ったときはもう少し先に進んでみようと思います。

 

19 帝釈寺前の堂様の石造物

 道順が飛びます。県道29号沿い、小畑部落は帝釈寺の向かい側に小さな堂様があります。その坪に庚申塔など興味深い石造物が並んでいます。車の場合は、すぐ近くにある豊崎地区公民館に停めさせていただくとよいでしょう。または、前回申しましたように大字岩屋をめぐる散歩コースの途中で立ち寄ってもよいと思います。

 通路左側には3体の仏様と庚申塔が並んでいます。左端の仏様は、不勉強で種別が分かりませんけれども、比較的大きな丸彫りでこのような表現のものは珍しいように思います。車道からもよう見えます。右端に背を向けて立っているのが庚申塔です。後で詳しく説明します。

 反対側には破損した仏様や何らかの残欠が安置されています。どうしてこんなに傷んだのでしょう。廃仏毀釈の影響でしょうか?大きな木のネキに安置し、お供えもあがっていることにすくわれますが、ほんにおいたわしいことではありませんか。このように痛んだ仏様やお塔(ぐりんさんなど)が粗末にならずに、通りがかりにでも手を合わる人がいる世の中が続いてほしいものです。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏

 小林さんのウェブサイト「国東半島の庚申塔」に掲載されている写真を拝見しますと、細部がこれよりもずっとくっきりと見えます。その写真の撮影時期は損じませんが、せいぜい数十年の間に急速に傷みが進んでいることが分かり残念に思います。

 この庚申塔で特に注目すべきは、上部の瑞雲です。塔の上端を波形にこしらえて、その縁どりぎりぎりのところまで瑞雲を大きく表現しています。複雑な曲線を描く瑞雲がお花くずしの風情にて、風雅を極めるの感があり素晴らしいと思います。主尊と童子は、すべて風化摩滅によりのっぺらぼうの様相を呈しています。以前はもう少しお顔の表情が分かったのですが、今ではそれを窺い知ることは難しい状況です。童子は珍しいことに坐像です。若干横坐りの様相を呈して、主尊に遠慮の様子が見て取れます。主尊の足元は、以前このシリーズで紹介した山川の庚申塔のように段々になった足場です。その真下には仲よう向かい合う鶏が彫ってありますがほとんど消えかかっています(実物を注意深く見れば分かります)。両脇の猿はめいめいの小部屋に収まっていることもあってか、その所作が容易に分かります。

 野晒しにて致し方ないとは思いますが、これ以上の傷みが進まないことを願うてやみません。

 

20 豊崎村郷土歌の看板(豊崎小学校跡)

 県道を行入ダムの方向に少し進めば、右側に豊崎小学校跡があります。少子化の進行と、市町村合併による行政の広域化などにより周縁部の小中学校の閉校が多発しています。教育上の都合を考えますと一概に良し悪しを言うことはできませんけれども、地域の中から学校がなくなるというのは寂しいことです。

 豊崎小学校の入口に「豊崎村郷土歌」の文句を記した看板が立っています。今後、小学校の跡地がどのように活用されるにしても、この看板はぜひ現地に残していただきたいし、それが難しいのであればせめて公民館などに移していただきたいものです。

豊崎村郷土歌
豊崎村は国東の 半島なかばに位して
 両子の峰を背に負い 流れも清き岩屋川
〽これぞわれらが墳墓の地 春の桜や秋紅葉
 四季とりどりの趣は わが故郷の誇りなり
〽戸数は四百で二千余の 民草ここに栄えゆく
 気もさわやかに打ち解けて 勤め励むや父祖の業
〽朝夕あおぐ氏神(※)の 鎮守の杜もいや高く
 十風五雨いざないで なりあう民に賜うなり
〽そそりて立つや泉福寺 無着禅師の開祖にて
 堂宇や山もはた森も 昔の様を語るなり
〽作るや米に粟や麦 畜産業は名も高く
 青筵(むしろ)に養蚕炭焼きと 四角五角に営めり
〽春の耕し夏の水 いそしむ業の暇にも
 人とし人とならんため 励む青年処女の会
〽御代の恵みに集い寄る 健児四百朝夕に
 智徳を磨き技を競い 有為の民とならんため
〽かくして産業日に進み 勤倹純朴人情の
 いと美(うるわ)しき里風は 香り芳し豊の崎
〽百姓昭明万邦の 協和にちなんだこの昭和
 村民一致の働きで 奮い起こせよ諸共に
氏神は、民謡調査の音源を聴くと「うじがみ」ではなく「うじしん」ないし「うじじん」と発音しています

 この唱歌は、文句の内容から昭和初期(戦前)に作られたものと思われます。地域の方にはたいへん懐かしい歌なのではないでしょうか。節は、唱歌「勇敢なる水兵」の旋律を利用しています。「勇敢なる水兵」は今は全く唄われませんが、ある年齢以上の方は誰でもご存じです。〽煙も見えず雲もなく、風もおこらず波立たず…の歌です。

 

21 行入耶馬の景勝(行入ダム)

 行ハダムの駐車場から、行入富士と千の岩の見事な景観を眺めることができます。県道沿いにて車窓から流し見してもよし、時間があれば車を停めて休憩するもよし、山歩きがお好きな方は登山道をたどってハイキングをしてもよいでしょう。千の岩や行入富士はダム湖の対岸または行入寺から登ります。県道側の万の岩に登る道もあります(トンネルの近くに標柱あり)。

 行入耶馬とはよう言うたもので、荒々しい岩峰の風景は耶馬十渓の景勝に見代えの見事なものです。このような景勝地は国東半島に点在しており、夫々田染耶馬、黒土耶馬、天念寺耶馬、岩戸寺耶馬、文珠耶馬などと称しています。

 少し長いのですがダムの説明書を転記しておきます。

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「行入ダム」建設概要

 平成9年2月18日、大分県における5番目の治水ダムとして「行入ダム」は完成しました。
 田深川沿川は、昭和36年10月に発生した低気圧により河川が氾濫し、浸水家屋190戸、水田冠水75haという大きな被害を受け、その後も度々、河岸の決壊、氾濫を繰り返してきましたため、抜本的治水対策が強く望まれておりました。
 このため県は、田深川治水計画の一環として、支川横手川の上流、国東町横手字行入地先にダムを建設すべく、昭和55年度より予備調査に入り、昭和58年には補助事業として実施調査を行い、昭和63年度から建設事務所を設置し、本格的にダム建設事業に着手しました。
 当初は、横手川ダムという名称でしたが、地元からの強い要望で、地区名からとった「行入ダム」と呼称するようになりました。
 工事を進めるにあたっては、地元地権者の方々のご理解、ご協力により、平成元年度に一番の難関であります用地買収を完了し、付替県道の工事に着手する運びとなりました。平成4年12月には本体工事を発注し、平成6年1月からコンクリートの打設を開始、平成10年1月には湛水試験も終り、当初の計画工程どおり全工程を完了させることができました。
 当ダムは、計画から完成まで18年間。順調に完成したダムではないかと思っております。
 ダム建設地の行入地区は、過疎化、高齢化が進んでおり、当ダムが地域の進行、起爆剤となることが期待されており、このため、周辺整備については、住民参加の懇談会等を設けて検討し、県下で初めてのパークゴルフ場等を盛り込んだ周辺環境整備計画を建て、また、シビックデザイン認定により、構造物にはデザイン的要素を取り入れ、景観、周辺環境との調和を図るなど、周辺の名所、旧跡等との観光ネットワークに取り込むべく整備を進めてきました。今後、地域の方々の憩いの場として、また、観光の資源としても、有効活用が大いに期待されると思っております。

国東町

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 いま、行ハダムは桜の名所として知られており、花の時季には市内外より大勢訪れますほか、パークゴルフ場で遊ぶ姿もよう見かけます。また、一時期は堰堤の上で細長い輪を立て、地域の供養踊りをしたこともありました。

 

22 行入本村の庚申塔(岩屋の中)

 ダムの駐車場に車を置いたまま、すぐ下手から脇道を下ります。この道は旧県道がダムの建設により途切れたので、新道につなぐためにつくられた道です。大きくS字に下っていき、道が平坦になる直前を左に折れて小さな橋を渡ります。対岸の道を左に行って、堰堤直下まで行きます。

 行き止まりから右上を見遣れば、竹の向こうに岩屋があります。この中に3基の庚申塔が立っています。岩屋に上がる通路は石段が崩れがちで、やや荒れています。けれども竹につかまりながら行けば特に危なくはありません。

 最後の方は傾斜が急で、落ち葉でよう滑ります。右が刻像塔、中央は文字塔(銘が消えています)、左は刻像塔のようですが痕跡を留めるのみの状態です。いずれも状態がよろしくありません。

青面金剛(詳細不明)

 砂地に埋もれかかるように倒れています。風化摩滅が著しく、青面金剛の頭部のみ辛うじて判別できます。ほかは全く分かりません。

 文字塔は下部が細く、いかにも据わりの悪そうな形状です。下を固定してどうにか立っています。碑面の荒れが著しく、彫りか墨書か分かりませんが銘は全く残っていません。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、ショケラ

 こちらも傷みがひどいものの、かろうじて諸像の姿は分かります。しかし鶏以外は一列に破損が著しく、特に猿は哀れなるかや今ぞ消え失せんとする状況にて、おいたわしいの言葉しかありません。主尊の残部から推察するに元は彫りの細かい表現であったと思われます。こうして拝見して気付きますのが、像を彫り込んでいるところばかりが傷んでいるという点です。浮き彫りにしているということは、像の周囲(余白)の全てをタガネ等で加工してあるのですから、よしその部分をフラットに仕上げたとしても、彫りくぼめる過程で石材の内面に表からは見えない傷みが生じており、その部分が経年劣化により崩れて表に響いたのでしょう。猿の部分の側面の状況が、それを示唆しているように思います。

 

23 本村の板碑(崖上)

 庚申塔から下の道路に戻って、本村部落の方に歩いていきますと、左の崖上に板碑が2基立っているのが見えます。

 このようにかなりの高所です。崖口に立っているのでその姿は容易に確認できるものの、梯子段でもなければ近寄るのは難しそうです。

 銘は全く確認できませんでした。地震等による転落が懸念されます。

 

今回は以上です。このシリーズは少しお休みにして、次回より数回に分けて日田方面の名所を紹介します。