大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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豊崎の名所めぐり その3(国東町)

 今回は豊崎地区のうち大字岩屋の名所旧跡です。適当な駐車場所がないところが多いので、岩屋公民館の駐車場に車を停めさせていただき、歩いてまわりました。神社やたくさんの興味深い石造物をめぐり、のどかな農村風景や道路沿いの花々も楽しむことができる、手軽な散歩コースとして紹介します。

 

10 岩屋の熊野神社

 市街地より県道29号を内陸に進み、城川(じょうがわ)部落の手前で田吹石油の看板を目印に二股を左にとって、川べりの旧道を進みます。豊崎簡易郵便局の先を左折して橋を渡り道なりに行けば、右側に岩屋公民館と熊野神社が並んでいます。ここは大字岩屋のうち中屋敷部落の外れにて、すぐ先は大字赤松です。公民館の駐車場と隣合うて鳥居が立っています(冒頭の写真)。ここから上ってもよいのですが、車道を進んで正面参道より上り、参拝後に冒頭の写真の参道から下るとよいでしょう。

熊野宮
左伎余保布波那能氣志紀乎美屢加羅
尼軻弥乃許々盧贈羅尼志羅留々
寛延己巳●月良辰 荘屋小山田吉

 この鳥居は市の文化財にしていされています。珍しいことに、万葉仮名にて和歌を記してあり、和歌の銘をもつ鳥居は国東市内ではほかにないそうです。和歌を読み下せば、「咲き白う 花の景色を 見るからに 神の心ぞ 空に知らるる」です。

 参道の石段は幅広で蹴上が低いし、手すりも設置されているので安全に通行することができます。さすがは村の鎮守だけあって、整備が行き届いています。

邑長 小山田傳三郎吉門
   同 太右衛門安之

 境内に上がりつけば、両脇にすばらしい彫りの狛犬が睨みをきかせています。阿形など、睨みをきかすというよりはにっこりと笑うているように見えまして、さても朗らかな雰囲気が感じられました。前足の爪、舌や歯など、何から何までよう整うた表現です。

施主 ●川●●●
   長木長左衛門興壽

 銘をその場で控えずに写真を見返せばよかろうと横着したところ、写真が悪くて「施主」の下の文言が読み取れませんでした。

 狛犬を後ろから見ますと、平べったくて珍妙な印象を受けます。正面からとはずいぶん雰囲気が違います。灯籠の脚の、複雑なお花模様にも注目してください。火袋のところの梅鉢とよう合うていると思います。

 境内のナギの木は、市指定の天然記念物です。昔からナギの木は熊野神社の御神木として知られており、方々の熊野神社で見かけます(枝で玉串をこしらえます)。けれども全国的にその本数が減少しているそうです。それで、こちらのナギは大きいこともあり天然記念物に指定されたのでしょう。市のウェブサイトによれば幹周り209㎝とのことで、これはナギの木としてはかなりの大きさです。

 拝殿にてお参りをしたら、右から上がったところの石祠も確認してみてください。熊野権現、妙見宮などいくつも並んでいます。めいめいに形が異なりまして、非常に精巧かつ立派な造りのものも見受けられました。

大正二年七月吉日 夫力青年

 新参道(公民館側)の上に立っている灯籠です。自然石の形状を生かしてこしらえた立派なもので、神社の灯籠というよりは旅館などの庭園で見かける灯籠のような雰囲気が感じられます。「夫力青年」の「青年」とは、蓋し青年団のことでしょう。昔はどこの部落でも、青年団(若者組)が盆踊りや神社のお祭りなどの際、大きな役割を担っていました。

 こちらの鳥居は「熊野社」です。お手水もあり、こちら側の参道が主になっていることがわかります。

 説明板の内容を転記します。

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熊野社

祭神 伊邪那美尊
由緒
 聖武天皇神亀2年(725)9月、国守大江守之熊野三柱大権現をこの地に勧請。のち、奈良天皇文年間(1532~1554)、城主田原氏社領8石を献ず。領主田原親董、いまの城山に城を築き、本社をその鎮守社とした。
列格 大正11年村社に列す。
文化財
 ホルトの木
 ナギの木
 (昭和38年1月27日 町指定天然記念物)
境内工作物
 鳥居 寛延2年(1749)宇佐石工
 灯籠 寛延元年(1748)
    寛政3年(1791)
    文化2年(1805)対
    天保5年(1834)
 手水舎 寛政3年(1791)
     文化12年(1815)
 狛犬 安政4年(1857)対
歴史
 9月9日の相撲、競馬

平成4年9月

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 説明板にある「城山」とは、城川部落の裏山「亀城跡」のことです。

 

11 中屋敷の伽藍塔

 熊野神社から元来た道を少し戻り、1つ目の角を左折してすぐさま左折します。

 陰平道を道なりに行きます。山裾に沿うていけばよいのです。車でも問題なく通れる道ですが、駐車ができません。

 上り口に標識が立っているのですぐ分かります。「百姓一揆犠牲者の墓」「五重伽藍塔」とあり、夫々文化財に指定されています。伽藍塔は、ほんの少し山道を上ればすぐのところですから簡単に見学できます。一揆犠牲者のお墓は伽藍塔よりもまだ上ったところのようで、今回は見学しませんでした。

 市のウェブサイトに掲載されている写真を事前に見ていたものの、実物を目にしてあっと驚きました。想像以上に大きく立派で、しかも保存状態がすこぶる良好、細部まで少しの瑕疵もありません。この一帯の墓地に付随する供養塔として、大切に維持されてきたのでしょう。

天明四甲辰歳
書経
七月十五日

 素晴らしく豪勢な造りであるばかりか、「石書経王」の文言から一字一石塔であることが分かりました。よほどの信心によるものです。立派な基壇の上に、矩形の反花・請花が乗ります。夫々花びらの表現が異なり、どちらも上品な印象を受けました。下段の龕部には重制石幢の龕部に見られる形状の六地蔵様が収まります。墓地に付随する六地蔵様でしょう。笠の上にはまた蓮台を挿み、それから上は宝篋印塔の様相を呈しています。しかもその塔身にも龕を設けて仏様が安置されています。相輪の尖端まで完璧に残っています。

 これほどいろいろな要素を含むお塔になりますと、えてして全体としてのまとまりに欠ける傾向にあるように思いますが、こちらはバランスがよいし細部の造りが丁寧で、見事にまとまっています。これほどのお塔は稀でありましょう。豊崎地区には庚申塔や仁王像をはじめとして、多種多様な石造文化財の優秀作が数多く残っています。その中でもこの伽藍塔は豪華絢爛で、ひときわ異彩を放っています。ありがたく見学させていただきました。

三部妙天教王全部 施主 吉左衛門

 斜めから見ますと、全体の造りの丁寧さがよう分かると思います。よほどの技量の石工さんによるものでしょう。

 六地蔵様の彫りも見事なものです。左の面から、一代、二代…と順々に並んで、ぐるりと反対面まで七代まで夫婦のお名前が彫ってあります。個人のお墓に付随する供養塔でありますから、見学の際にはこの点をよう心得たいものです。

 伽藍塔の並びには、これまた見事な造りの御室に守られた仏様が並んでいます。供養塔か墓碑か判断がつきませんが、いずれにせよこれほどの造りのものは稀でありましょう。

 

12 中屋敷の山神社

 伽藍塔から陰平道に返って、先に進みます。倉庫の横を通って道が右に折れ山すそを離れるところから左方向に急な参道が伸びています。

 田染の熊野権現の鬼の百段を見たような、乱積みの石段です。あれよりはずっと短うございますけれども傾斜が急で、しかも全体的に崩れがちですから特に下りの際に注意を要します。迂回路はありません。

 境内はごく狭く、お社は傷みが進んでいます。けれども用地に竹が倒れたりしておらず、手入れがなされていました。シメもかかり、地域の方の信仰が続いていることが分かります。灯籠は倒壊したのを積み直したようで、一部の部材が横倒しのまま重ねてありました。

猿田彦神

 境内には庚申塔が1基立っています。この塔は上部が大きく破損しています。銘がごくささやかなもので、小さな字で彫ってあるのがこれ幸いなことに、破損部位に架からずに済んでいます。或いは後刻ではあるまいかと思えるほど、塔の形状に対して不釣り合いな字の大きさです。

 

13 中屋敷の石造物(路傍)

 中屋敷部落の道を歩きますと、路傍の石造物が数々見つかりました。その中からいくつか掲載します。まず、山神社の参道下の角に四国八十八所の供養塔が立っています。

四国供養塔

 この種の供養塔は方々に残っています。国東半島はお接待に象徴されるように、お弘法様の信仰が篤い地域です。こちらは、残念ながら周囲が荒れ気味でした。けれども供養塔をはじめ隣の石祠も、すべて状態は良好です。

 四国供養塔のところから右に折れて道なりに行けば、右側に立派な石祠が3つ並んでいます。整地して鄭重にお祀りされています。中にはすべて仏様が収まり、めいめいにお供えがあがっています。水仙などの花が咲き、春の訪れを感じました。

 

14 堀ノ内の天満社

 突き当りを左折して道なりに小さい橋を渡れば堀ノ内部落です。流れ清らな岩屋川沿いの道にて、道路端には梅の花が咲きほんに風光明媚なところです。少し進めば右側に天満社と観音堂が並んでいます。観音堂の坪には庚申塔や一字一石塔などがあるのですが、間違って写真を消してしまいましたので天満社のみ紹介します。

 このように道路端ですからすぐ分かります。鳥居の扁額には「天満宮」とあります。拝殿はありません。現状から推察するに、車が通れるように道路を拡げた際に敷地が削られたのでしょう。

 一段高いところに3つの石祠が横並びで、中央が「天満宮」です。左右は何の神様か分かりませんでした。それにしても、石垣をも厭わで横に伸びた木の何とたくましいことでしょう。

 

15 来ヶ迫の庚申塔

 天満社と観音堂を過ぎて道なりに行けば、十字路に出ます。これを左折して、赤松に越す道を少し進みます。右カーブしながら上っていくと、右に溜池への道が分かれています。

 この標柱を目印に右折して、簡易舗装の道を行きます。軽自動車なら問題なく通行できる幅がありますが、目指す庚申塔までに駐車可能な余地が全くないばかりか転回も難しそうでしたから、歩いて行った方がよいと思います。

 しばらく歩くと、右側に背の高い木が見えてきます。道路から外れてこの木の右に回り込むように進めば、庚申塔の正面に出ます。車道からほど近いし、いかにも庚申塔がありそうな場所なのですぐ分かると思います。

 近くに寄ってあっと驚きました。2mほどの大型の文字塔が大きく前傾し、上部に鎖をからげて木の幹が支えています。鎖は転倒予防のため念のため…という類ではなく、テンションがかかっていますからもし鎖がなければスッテンコロリの首尾なのです。塔の形状自体が、上が大きく下は小さいという独特なもので、ただでさえ安定が悪そうなものを、おそらく木が育つにつれ根が上がり、いよいよ不安定になったのでしょう。このような支え方をしている庚申塔ははじめて見かけたので、呆気にとられてしまいました。

享保元年丙申天
奉敬青面金剛
十一月吉日

 鎖の甲斐あって倒れたりしていないので、塔の状態はすこぶる良好です。銘の彫りが実に堂々としていて、よいと思います。下部には7人のお名前が彫ってあって、この部分も「源助」「利助」など一人ひとりの名前が容易に読み取れました。奉の字の上の円は、1つだけですから日輪や月輪ではなく、この中に梵字を墨で書いてあったのではないでしょうか。額部にはいちめんに鱗模様が施されています。どのような意図か存じませんけれども、基壇に浅く彫った蓮のお花とよう合うています。塔の形状もそうですし、大きく前のめりになっていることからともすると威圧的な印象を覚えそうなものを、この鱗模様とお花とにより幾分それが和らいでいます。

 たいへん大きく立派な庚申様です。行き方も難しくないので、見学をお勧めします。

 

16 堀ノ内の宮地嶽神社

 今回吉藤の庚申塔は訪ねなかったので、来ヶ迫の庚申塔から先ほどの十字路まで後戻って、直進しました(観音堂からなら右折)。ほどなく、左側に宮地嶽神社の参道があります。

 ここから宮地嶽神社まで、長い長い参道を登っていきます。下の方は道路拡幅に付け替えられたようです。竹の杖を用意してくださっているので、借りるとよいでしょう。

奉納 手すり一式 松木博康

 松木さんのお蔭で、安全に通行できます。踏面が狭いので、手すりがないと下りで胆が冷えそうな階段です。これを上ったら左に折れて、昔ながらの参道を登っていきます。

 参道にコンクリートブロックを設置して段々をこしらえてくださっているので、この辺りは容易に通行できました。もし段々がなかったらかなりの急坂にて、ロープを頼りにやっとこさの首尾でしょう。

 少し登ると右側の平場(上下2段)に数基の製造物を見つけたので、寄り道をしました。下段の手前には宝篋印塔や宝塔の部材を後家合わせにしたお塔が立っています。相輪や格狭間など、残った部分はそれなりの状態を保っているのに、龕部が見当たらなかったのが残念です。

 通路を奥まで行って振り返った写真です。中央の宝塔も後家合わせだと思います。塔身が饅頭型にて扁平を極め、笠や相輪もちぐはぐな感じがいたします。蓮台の大きさから推して、もとはそれなりの高さの塔であったと思われます。手前は蓮台や笠を組み合わせた後家合わせの塔です。それにしてもこの蓮台の大造りなこと、このような表現はあまり見かけません。この奥(写真では手前)には昔の墓地がずっと先の方まで段々になっていました。その墓地に付随する供養塔の意味合いで造立されたものでしょう。

 ひとつ上の段には、何かの残欠と、無宝塔の残欠と思しき石造物が残っていました。蓮台や格狭間はそれなりの状態を保っています。塔身はどこに行ったのでしょう。壊れる前の姿を見てみたかったものです。

 さて参道に返って歩を進めよう!と思いましたが、参道は傾斜を増すばかりで、しかもコンクリートブロックの段々も乏しく、下りに骨が折れそうでした。まだ先の道中もありましたので、この場所からの遥拝として車道まで後戻りました。

 

17 城平の庚申塔

 宮地嶽神社の参道下から道なりに行き、橋を渡れば大字横手は小畑部落に出て、県道29号に突き当たります。これを右折すればほどなく堂様の坪に庚申塔など興味深い石造物が並んでいます(またの機会に紹介します)。それを過ぎたら一旦人家が途絶え、新道と旧道が二股になっています。

 この二股の左側にお墓があり、お墓の手前から右に急坂を登ったところに立派な庚申塔が立っています。たいへん豪華で、しかも保存状態がすこぶる良好です!詳細は下記リンクよりご覧ください。

oitameisho.hatenablog.com

 この庚申塔は、私が『くにさき史談第九集』などを参考に国東半島の庚申塔探訪をはじめた初期の頃に偶然にも見つけた、同著に掲載のない塔です。塔の場所はぎりぎりで大字横手のうちなのですが、近隣部落との位置関係から、小畑ではなく旧道沿いの部落(大字岩屋のうち)の講組によるものと思われます。それで、部落名が分かりませんでしたので近くで見つけた急傾斜地崩壊危険区域の看板にあった字名をとりました。

 庚申塔を見学したら二股を右にとって旧道を進み、右の端を渡って岩屋公民館まで戻ります。ゆっくり見学してまわっても、2時間あればよいでしょう。なお、大字岩屋には今回紹介した以外にも庚申塔や神社、堂様などがあります。それらまたの機会とします。

 

今回は以上です。次回もこのシリーズの続きを書きます。

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