大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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諏訪の名所めぐり その4(野津原町)

 久しぶりに諏訪地区のシリーズの続きを書きます。過去の写真が主になりますが、下詰の霊場、宝泉寺跡の石造物など盛りだくさんの内容です。後半は肥後街道を辿り、矢貫の石橋を皮切りに峠の夜泣止め地蔵までを紹介します。この続きは「野津原の名所めぐり」の冒頭に繋がります。

 

12 下詰の霊場

 下詰部落の高台に、馬頭観音様・大日様・繭観音様などがお祀りされています(冒頭の写真)。以前は別の場所にあったのですが、ダム工事により現在地に移転したのです。道の駅野津原の向かい側に立派な道標が立っているのですぐ分かります。坂道を道なりに上っていき、公民館の背戸を入った先です。立ち寄りやすい場所なので、みなさんに参拝・見学をお勧めいたします。

 3面8臂の馬頭観音様は非常に立体感に富んでおり、しかも部分々々の細やかな表現、バランスのよさなど、何から何まで行き届いた秀作です。いかめしいお顔、印を結んだ指などは言うに及ばず、羂索が台座の外にまではみ出してさがっているのもよいと思います。右書きの「馬頭観音」の典雅な字体もまたようございます。

 馬頭観音様の線香立てには馬が彫ってあります。

 大日様は、眉や鼻、顎に高貴な感じがよう出ています。諸々の信仰がありますが、「牛乗り大日様」は馬頭観音様と並んで、牛馬の神様として農家から絶大なる信仰を集めていました。

 大日様の線香立ては牛です。大日様自体は牛乗りではなく普通の坐像ですが、やはりこの地域の方々にとっては、大日様といえば牛、牛乗り大日様であったのでしょう。この線香立てによって、往時の信仰形態が推察されます。

 こちらは繭観音様です。両手で、繭玉を持った鉢を持っています。このお観音様は、蚕のお供養のための造立と思われます。蚕の繭からは美しい絹糸がとれますが、茹でるので蚕は死んでしまいます。昔は、野津原でも養蚕をしていたのでしょう。方々に、いろいろな動物のお墓や供養塔などが残っています。こちらもその一例です。

 線香立てには蚕が彫ってあります。

 さて、この3尊はそう古いものではないような気がいたします。もちろん10年20年どころではないものの、戦後のもののような気がしました。馬頭観音様(馬)、大日様(牛)、繭観音様(蚕)。いずれも「いのちき」に深く関係のある動物の健康やお供養を願うたものであります。よし仏様の造立が新しかろうとて、発願者や今に至るまで大切にお祀りを続けてこられた地域の方々の優しい心根が感じられますし、昔の産業と生活の記録という側面もあるかと思います。その意味で非常に意義深いと言えましょう。

 ダムができて、この辺りの風景は大きく変わりました。以前は谷筋いっぱいに広がっていた大規模な棚田も見られなくなりましたし、そもそも牛馬を農耕に使役する時代は一昔も二昔も前になっています。でも、世の中が変わっても本当に大切なことは変わらないのではないでしょうか。参拝して、私はそんなことを考えました。

 左側には小さなお不動様とお塔がお祀りされています。塔は銘の読み取りが難しく、内容が分かりませんでした。蓋し庚申塔か供養塔の類でしょう。

 右隣りには新西国の札所があり、御詠歌が掲示されています。素朴な仏様のお顔は優しそうです。野津原は四国八十八所の信仰が篤い土地で、昔は新四国の霊場を千人参りのおばあさんが巡拝する姿を見かけたものです。同じように、西国三十三所の信仰も篤かったのでしょう。

 

13 宝泉寺跡の石造物

 道の駅から、車で大分方面に行きます。警察学校の標識のある辻(信号機有)を左折して道なりに橋を渡り、次の辻を右折します。車はこの辺りの路側帯に、邪魔にならないように停めます。

 「国際竹とんぼ協会」の建物を右に見て歩き、煙草屋さんの先を右折すればすぐ一字一石塔の説明板が立っています。その先に数基の石塔や石仏が並んでいますので、すぐ分かります。

 右の石祠には「五社大明神」と彫ってあります。五柱の神様をお祀りしてあるものと思われます。

 左端の塔が、文化財に指定されている一字一石塔です。写真では大きさが分かりにくいと思いますが、2m以上もあります。これは、一字一石塔にしては大型の部類です。しかもこの塔は側面に、「三界万霊」「天下泰平」などと一字一石塔を建立する目的(願いごと)を彫ってあります。このような事例は、あまり見かけた覚えがありません。

 内容を転記します。

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大分市指定文化財
宝泉寺大乗妙典一字一石塔

 総高215cmの大きな一字一石塔で、基礎石一段の上に自然石上の塔身を乗せている。平らに磨いた塔身正面と両側面に、対のような銘文が陰刻されている。

(正面)
大乗妙典一字一石塔 享保十二丁未年六月吉祥日

(右面)
三界万霊

(左面)
天下泰平處繁昌 竹ノ内邑佐藤次助義政造立之者也

 享保12年(1727)の造立は、一字一石塔としては早期であり、また庶民信仰の上からも重要な遺品である。

大分市教育委員会

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 こちらはお不動さんと思われます。つぶらな瞳と優しそうな口許が心に残りました。しかも両足を揃えて行儀よう立っています。その下は獅子の頭のような気もしますが定かではありません。また、頭の左右には窓のような穴があいています。意図は分かりませんけれども珍しい事例ではないでしょうか?

 こちらは、龕の奥に仏様が浮き彫りになっています。かなりの厚肉彫りであり、蓮華坐をも伴う力作です。風化摩滅と私の不勉強により尊名は分かりませんでした。3面6臂です。ふくよかなお姿が印象深うございます。

 

○ 盆踊り唄「祭文」「ほうちょうぬべぬべ」

 諏訪地区では盆口説が下火になって久しく、昔ながらの盆踊りを見かけることが稀になりました。以前は供養踊りが方々で踊られたほか、特に原村はお観音様、地蔵踊りなど次から次に盆踊りがあり、戦前までは一夏に8回程度も踊っていたそうです。演目は「祭文」「ほうちょのべのべ」「弓引き」「書生さん」「猿丸太夫」「竹刀踊り」「二つ拍子」「大正踊り」等、種々ありました。
 ここに「祭文」と「ほうちょうぬべぬべ」を紹介します。「祭文」はこの地域の演目の中でも特に古いもので、鶴崎踊りのそれよりもずっと田舎風であり、昔懐かしい感じのするよい節です。「ほうちょうぬべぬべ」は「祭文」を陰旋にしたもので、「祭文」よりも早間に唄います。ここでいう「ほうちょう」は「やせうま」のことで、この唄は盆口説としてのみならず、お盆のお供えなどでやせうまをこしらえるときにも唄ったそうです。

盆踊り唄「祭文」
〽国は長州 三田尻のホホンホー(アラヨイショヨイショ)
 一の港に かこ町と(ソレーヤ ソレー ヤートヤンソレサ)
〽寺も数々 ある中でヘヘンヘー(アラヨイショヨイショ)
 中をとりわけ 伝照寺(ソレーヤ ソレー ヤートヤンソレサ)
〽あまたお弟子の その中にヒヒンヒー(アラヨイショヨイショ)
 一のお弟子に 俊海と(ソレーヤ ソレー ヤートヤンソレサ)
※上句の末尾の、ホホンホーとかヘヘンヘーなどのことさらな音引きに旧調の面影を色濃く残します。他地域ではこの部分を「コラサノサ」とか「ヨイトサッサ」と囃すことが多いほか、鶴崎踊りに至っては三味線に任せて、この音引きの囃子を省略しています。

盆踊り唄「ほうちょうぬべぬべ」
〽ほうちょうぬべぬべ今夜の夜食チリツンテンシャン
 はやくぬばねば夜が明ける(ソレエー ソレエー ヤットヤンソレサ)
〽盆の十六日おばんかていたらチリツンテンシャン
 茄子切りかけ不老の煮しめ(ソレエー ソレエー ヤットヤンソレサ)
※上句末尾の音引き部分が、ハハンハーなどではなくて口三味線風になっています。鶴崎踊りの祭文の流行のほどがうかがわれます。

 

14 塩地蔵いのこ

 国際竹とんぼ協会の辻を挾間方面に少し進むと、左側に矢貫バス停があります。車はこの辺りの路側帯に邪魔にならないように停めます。ここは大字竹矢のうち矢貫部落です。バス停の向かい側に「塩地蔵いのこ」の立札が立っています。

 さて、「いのこ」とは簡単に申しますと、湧水のことです。それも、山肌から水が湧いているようなところではなくて、湧水地に枡をこしらえてあるところを指すことが多いように思います。深井戸のことも「いのこ」と呼ぶ地域もありますが、一般に「いのこ」の枡は、釣瓶やポンプを使わなくても水を汲めます。飲料水・生活用水・農業用水などの用を満たすために「いのこ」は欠かせないものでした。

 この立札のところから階段を下りていき、道路の下のトンネル状になったところの奥にいのこがあります。道路工事の際、いのこを取り潰さずにこのような形で保存したのでしょう。

 中は整備が行き届いています。パイプが引いてあることから、今なお灌漑にいのこの水を用いているようです。柄杓が置いてあり、自由に組むこともできます。上には水の神様がお祀りされていました。

 説明板の内容を転記します。

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塩地蔵(しょんど)いのこ

 清正公の上方詣で、細川公・中川公の参勤交代や多くの旅人・上人が通った肥後街道の東部「矢貫」のほぼ中央部の小さな坂道を下りたところにこの「塩地蔵いのこ」があります。旅人や住民ののどを潤したと思われる「いのこ」です。(猪=水たまりの意)
 幕末には伊能忠敬の測量隊や、軍艦奉行勝海舟と時の風雲児坂本龍馬の二人旅も街道を往復しています(2人ともこの水を飲みました、たぶん!)。戦国・江戸・明治・大正・昭和から平成と長い間、多くの人々ののどを潤したとてもおいしい水です。一度飲んでみてください。夏は冷たく、冬はほどよくまろやかな水です。

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 さて、説明板にもあるとおり矢貫部落を肥後街道が抜けています。今から肥後街道を歩いて、野津原地区に下ってみましょう。道中には昔の石畳が残っています。そう遠くありません。歴史散策を気軽に楽しめるコースとして、みなさんにお勧めいたします。

 

15 矢貫の石橋

 塩地蔵いのこの下り口を過ぎて少し行くと、右側に石橋の案内板が立っています。その角を右折すればすぐのところです。この橋は肥後街道の遺構として貴重なものであるとともに、今も生活道路として現役です。

 上は舗装されていますが、それ以外は昔のまま残っています。そう深い谷ではありませんので、江戸時代のことですから木橋かトントン橋で済ませそうなのに、わざわざ石橋を設けてあるところからもこの道の重要性が覗えます。大分県で石橋と申しますとアーチ橋を思い浮かべる方が多いと思いますが、こちらは桁橋です。4本の長い石を平行に並べてあります。両岸の石積みも含めて、いかにも古そうな雰囲気が見てとれます。歩いて渡り、ぜひ見学してみてください。

 

16 井塚の石畳と切通

 石橋を渡ったら左方向に行きます。ほどなく、右側に石畳の上り口があります。

 このように肥後街道の道標を立ててくださっているので、すぐ分かります。これを右折すればほどなく、石畳が出てきます。

 この辺りは特に傾斜が急で、横の石垣も崩れかけています。屈曲した坂道には石畳が敷いてあります。落ち葉や竹で埋もれがちですけれども、実際に歩けばすぐ分かります。

 この道を歩いて、特に印象深かったところです。以前、今市地区のシリーズで今市の宿場町の石畳を紹介しました。あれと一続きの道です。今市は町方の石畳、こちらは山越えの石畳ということで、一口に石畳と申しましてもその造りはずいぶん違います。もちろん後年の保存整備の差ということもありましょうから一概には言えませんけれども、やはり山越え区間の方がやや荒っぽい造りになっています。

 ひとつ前の写真やこの写真の辺りは急な坂道で、石畳がなかったら雨のあとなどぬかるんでとても歩きにくかったことでしょう。歩く人が稀な道であればまだしも、肥後街道なればこそ往来も盛んで、じるい坂道を何人も行き来すれば忽ち路面状況は悪化の一途を辿り、スッテンコロリの不首尾でございます。多くの人が、この石畳の恩恵にあずかったのです。

 傾斜がなだらかになりました。この辺りにも石畳があったのかもしれませんけれども、現状では全く分かりません。土に埋もれているのでしょうか、それともこの区間は最初から土の道だったのでしょうか。落ち葉の道はたいへん気持ちようございます。

 石畳は見えずとも、やはり道幅が広うございます。古い石垣を見ますと、ただの山道ではないことが一目瞭然です。

 上り詰めたところは切通しになっています。これもかなり古いものでしょう。ちょうど切通しの上を水路が通っています。

 

17 夜泣き止め地蔵

 切通しの近く、峠に出たら左に折れて上ったところに小さな堂様があります。道しるべがあるので、特に迷うことはないと思います。

 中にはお地蔵様がお祀りされています。こちらは「夜泣き止め地蔵」と申しまして、赤子の夜泣きに効く、疳の虫が止むとて昔は参詣者がひっきりなしに訪れ、その霊験は近隣在郷に広く知られていたそうです。

 堂様の裏側には洞穴状の岩屋をこしらえて、中に仏様がお祀りされていました。説明板がなかったので詳しいことは分かりません。

 仏様は、めいめいに造形が異なります。保存状態は様々です。いずれもにっこりと笑うたお顔で、たいへんお優しそうな雰囲気です。お祀りした本来の目的はさておき、子供の育ちを見守ってくださりそうな気がいたします。特に右から2体目の坐像は頭部が破損したところに、新しい頭をすげ替えています。その新しいお顔の表情が朗らかで、拝見いたしますと心が晴れ晴れとしてまいりました。

 すぐそばには石塔も残っています。地衣類で碑面が荒れ、銘を読み取れませんでした。「界」のような字があったので、三界万霊塔かもしれません。

 さて、肥後街道はまた続きます。ここから先は野津原地区に入るので、「野津原の名所めぐり その1」の記事をご覧ください。

 

今回は以上です。次回は野津原地区の記事を書きます。

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