大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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西大野の名所めぐり その1(朝地町)

 このシリーズでは西大野地区の名所旧跡を紹介します。当地区は旧の西大野村の区域で、朝地町大字綿田・鳥田(とりた)・栗林・梨小(なしこ)および直入町大字神堤(かみつつみ)からなります。昭和29年に西大野村と上井田村が合併し朝地村が発足、翌年に町政を施行しましたが昭和31年に、大字神堤全域が直入町に分離編入しました。そのため、このシリーズは朝地町直入町に跨ることになります。

 この地域を代表する名所としては、どなたに尋ねても神角寺(じんかくじ)を挙げられると思います。ほかに小川野磨崖仏や方々に残る石造文化財、神角寺渓谷など種々あります。しかし探訪が不十分なので、道順が飛び飛びになります。初回は、ひとまず写真のある分を全部掲載します。まだ行ったことのない場所も多いので、ある程度写真がたまったらその2、その3と続けていくつもりです。

 

1 神角寺

 標識が充実しているので道案内は省きます。神角寺は近隣でも屈指の歴史のある真言宗寺院で、近隣在郷はおろか遠方からの信仰も篤いうえに、本堂や仁王像といった文化財や石楠花で著名なので観光客も盛んに訪れています。特によいのは石楠花の時季で、広い駐車場から境内の至るところが花また花、色とりどりの石楠花が千々に咲き乱れてまったく桃源郷の様相を呈します。

 さて、駐車場に車を停めてすぐの仁王門の中には木造仁王像が安置されています。文化財保護のためガラスで隔たれていますのでうまく写真を撮れませんでしたが、見学する分には支障はありません。それはもう素晴らしい仁王様でございます。説明板の内容を転記しておきます。

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運慶の作風を伝える仁王像

 昭和55年 奈良国立博物館長倉田文作先生の目にとまり、「鎌倉時代の木彫りで運慶の作風を最も正しく伝えた、九州ではただ一つしかない傑作」ということで国の重要文化財に指定されました。京都国宝修理所で修復されたとき、1枚の木札が体内から出てきました。表には献上した47人の名前が書いてあります。調べてみると、「元」の大軍が日本に攻め寄せた弘安の役の頃に、国土の安全を祈り、運慶の弟子(慶派仏師)の手により荘園領主地頭等がこぞって仁王を献じたことがわかりました。木札裏には、岡藩主中川久忠公が京都の大仏師山本左門に頼み、大修理をしたことが記されています。日本一流の仏師により制作修理され、今日に至っている仁王像です。

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 仁王像とならんで、神角寺を代表する文化財がこの本堂です。古式の面影をよう残す建築が素晴らしい。委細は後ほど説明板を引用することにしてまず感想を申しますと、棟の反り方がよく、格子造りの部分の比率など全てに均整の美が感じられました。

 説明板の内容を転記します(より読みやすいように少し改変しました)。

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平安・鎌倉両様式を備える本堂

 本堂は、単層方形桧皮葺きであり、平安期・鎌倉期の両様式の混在する建築で、明治40年に国の特別保護建造物に、昭和25年には国の重要文化財に指定されています。慶長9年、大正10年、昭和6年に大修理が行われ現在に至っています。
 特徴は円柱3間の方形で、柱の上部は内すぼみになっており、肘木は柱の上部とその中間にも設けられ、垂木は平行組になっています。隅棟の反りは美しく、禅宗建築様式が多分に取り入れられています。
 内陣には秘仏観世音菩薩が奉安され17年毎の開帳、33年毎の本開帳が行われます。脇侍は、右が不動明王、左が聖宝理源大師となっており、十二天像と4体の懸仏(県指定重要文化財)が安置されています。

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 境内には、参道脇に年代も様々な仏様が安置されています。写真をご覧いただくと、毛糸で編んだ帽子をかぶせたお地蔵様、頭部の破損した仏様など様々です。後者は、廃仏毀釈等の煽りを受けたのかもしれません。なお、写真の向かって右から2番目はお弘法様の坐像と思われます。

辨財天

 水の枯れたお池の半ばにお祀りされた弁天さまで、小さな橋を架けてあります。弁天様は、以前も申しましたように旧字の場合「辯財天」が本来の用字です。けれども慣用的な用字として、「辨財天」の銘もよう見かけます。もっとも今は、「辨(辧)別」、花瓣、辯護…と意味の異なる3つの文字をすべて「弁」に統一して久しいので、辨財天か辯財天か…と気にする人は稀でしょう。

 それにしても、こちらの弁天様は極めて簡略的な彫りでありながら、優しそうな雰囲気がよう出てとてもよいと思います。朗らかなお顔はもちろんのこと、琵琶の表現など、全体的に可愛らしく、親しみ深うございます。

 境内の左奥には、この一帯に開かれた霊場の第一番札所があります。御室におさまったお釈迦様の横にはお弘法様が並んでおり、これは新四国の札所の一般的な形態です。第一番ということで特別に鄭重にお祀りされ、石燈籠も伴います。

 一番札所から先はこのような細道が続いており、二番、三番…と巡拝して国見の鼻の八十八番札所までぐるりとお山めぐりをして右側から境内に戻ってくるというコースになっています。時間の関係で巡拝できなかったので、また秋になったら行ってみようと思います。

 大分県ではこの種の霊場がない地域の方が稀かと思われるくらい、○○四国、○○西国という文言を盛んに見かけます。広域的なものからごく狭い範囲のもの、果てはひとところに全て寄せたものまで形態は種々あり、その数の多いことに驚かされます。昔の方の信心深さは言うまでもありませんが、そのような地域の霊場を巡拝することには、語弊があるかもしれませんがある意味ではレクリエーション的な側面もあったのかもしれません。

 

2 国見の鼻

 神角寺本堂のところから右奥に進み、折り返すように右に上ったところを国見の鼻と申します。この場所には宝篋印塔や新四国の札所などといった石造物が種々見られますほか、素晴らしい展望が開けます。本堂から僅かな距離ですから、ぜひ足をのばしてください。

 遮るものない大展望です。本当はもっと遠くまで見晴らせるのですが、当日は黄砂の影響で霞んでいました。それでも大野地方特有の、山や川、小盆地など変化に富んだ地形がよう分かります。秋はもっとよいと思います。

 国見の鼻の由来を記した説明板の内容を転記します。

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国見の鼻

 ここは標高750mの位置にあり、久住連山、祖母傾山阿蘇連山を望む眺望の美しい高台です。
 その昔、源為朝の国見伝説が伝わっており、平安期には神角寺城砦として大野九郎泰基の守りも堅く、大友の大軍を打ち負かしたところとして伝わっています。以後大友一族「一万田氏」「志賀氏」は城砦を西の鳥屋城に移し、この地は大野荘の奥の院として位置づけ、大野川流域の磨崖仏に見られるごとく奥豊後仏教文化の拠点霊場として手厚い加護を受けてきました。
 中川公の時代には、いっそう仏閣の修理整備が行われ、参詣時には必ずこの地より藩内を望見したところから「国見の鼻」と呼ばれるようになりました。また、郷医藤田玄水の八十八か所霊場開設記念碑や宝篋印塔があります。

豊後大野市

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 説明板の内容を転記します。

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阿蘇火砕流がつくる豊後大野の地形

 この展望所からは、豊後大野市内がほぼ一望できます。正面の山は三重町の南方、佩楯山周辺の山々で、そこから右の方に目を移すと、傾山から祖母山にいたる稜線を望むことができます。手前の街は大野町の中心部で、その右には大分県応空港も見えます。周辺に広がる丘陵地帯は「大野原(おおのはる)台地」とも呼ばれ、今からおよそ9万年前、阿蘇火山の4回目の巨大噴火によって発生した火砕流が低地を埋めて広がり、それが固まったのちに河川によって浸蝕された地形です。ここからの眺めは、約9万年前の巨大火砕流の広がりを目の当たりにすることができます。

※ 豊後大野の大地は、約9万年前の阿蘇火山の巨大噴火による火砕流にほぼ埋め尽くされました。やがてそこに水が流れ、大地を浸蝕し、深い谷ができました。浸蝕から取り残された場所は「原(はる)」と呼ばれる台地となり、豊後大野の地形の大きな特徴となっています。人々はこの「原」に水を引き、広大な畑として利用しています。

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 記載のある「原」の畑作風景については、「大野の名所めぐりその2」をご覧ください。

 この宝篋印塔は、隅飾りが2か所大きく破損しているのが惜しまれます(写真の向きだと裏側にあたる箇所です)。それ以外はすこぶる良好です。全体的にバランスがよく、装飾性に富んだ秀作といえましょう。

 さて、この塔でおもしろいのは宝珠の下のところです。蓮花のすぐ下に小さな獅子ないし夜叉の顔が見てとれます。わたしはこのような造りのものを見た覚えがなく、たいへん珍しく感じましたが、これは一般的に見られるものなのでしょうか? 隅飾りが外に張り出している点などから、そう古いものではなく江戸時代の造立ではあるまいかと考えています。

 破損した坐像の右隣には、新四国の由来を記した碑銘が立っています。内容を転記します。

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当山八十八所石碑記
南海阿讃予土之四州八十八処之霊境者吾●弘法大師所肇也遺跡千有余載而四方礼拝供養者緇素群聚雖然老人婦女事故疾病之類徒有其志而不達●望者亦多矣酒井寺郷医藤田玄水自

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 旧字は変換が面倒なのですべて新字にて表記し、変換できなかった字と読み取れなかった字は伏せました。勉強不足で間違いもあるかもしれませんが、私なりに解釈した内容を申しますと、「南海道は阿波、讃岐、伊予、土佐の四国八十八所は、弘法大師の遺跡として千年以上の歴史があり方々より在家・出家を問わず大勢の信仰をあつめています。しかしお年寄りや女性などは道半ばにして事故や病気などで満願成就に至らない人も多い(ので、地域の人が容易に巡拝できるようにこの山に写し霊場を開きました)」です。概ね、このような意味合いだと思います。なお、酒井寺(さかいじ)という地名は大野町の大字に残っています。もちろん郷名としてのそれは、現在の大字酒井寺よりももっと広範囲を指していたのでしょう。

白牛車石寫

 白牛車と申しますのは三車火宅に由来する、法華経の比喩的な表現です。つまり「大乗妙典石写」と同義で、一般的な一字一石塔です。三車火宅とは、家が火事になったことに気付かず屋内で遊んでいる子供を、お父さんが三つの車(羊車、鹿車、牛車)で屋外に誘い出しまして、無事逃げられたので大白牛車を与えた云々、火事になった家は苦に満ちた世の中で苦しんでいる衆生の、三つの車は声聞・縁覚・菩薩の三乗の、大白牛車はそれを統べる法華経の譬えであると申します。

 この三車火宅のくだりが出てくる唄に、その名も「三つの車」という端唄があります。あまり有名な唄ではありませんが、ご存じの方は冒頭の、ものものしい雰囲気で唄うところを思い出してみてください。「三つの車に法の道~、火宅の門や出ぬらん~」という文句です。これは三車火宅の内容であることは明白ですが、ここから先は「ソラ出た、生霊なんぞはおお怖や、身の憂きに、人の怨みは何のその、私の思いは怖いぞよ…」云々と、源氏物語の御息所の怨みごとに切り替わるところがおもしろうございます。

 椎茸に見立てた東屋がすてきです。一字一石塔の裏面には「願主 田中 森庄助」とあります。田中とは大野町の地名です。

 近隣の車道沿いの数か所で、札所を見つけました。八十六番は十一面観音様で、お弘法様は伴いません。

 六番札所は薬師様です。隣には神角寺への丁石が立っています。以前、「上井田の名所めぐり その1」の中で、大字池田は白石にある丁石(三十六丁)を紹介しています。

 

3 鳥屋の供養塔・庚申塔

  神角寺の駐車場から左方向に行き道なりに下っていきますと、朝倉文夫公園の看板のある辻に出ます。これを直進してなおも進めば、カーブミラーのある右カーブの外側に「牛魂」の銘のある小さな碑が立っており、その横に庚申塔と供養塔が立っています。この場所は鳥屋(とや)部落のうちです。一口に鳥屋と申しましてもそれなりに広範囲に亙ります。けれども小さい地名や組名が分からなかったので、一応、項目名は「鳥屋の…」としました。

猪鹿千頭供養塔

 おそらく狩猟に携わる方々による造立でしょう。県内には、このような猪や鹿の供養塔や熊の墓、鯨の墓、魚鱗供養塔など種々あります。また昔は漁村において、初盆の供養踊りとは別に魚霊供養の盆踊りもする事例も方々にありました。こういった供養塔や魚霊供養の盆踊りなどは、現代に生きるわたしたちに何か大切なことを示唆しているように思います。

 この供養塔には、たくさんの庚申塔が寄りかかっています。

 破損しているもの、倒れているものもありますが、8基程度あるようです。主たる銘は「庚申塔」です。正面左の塔は享保年間の銘があり、7名のお名前が彫ってあります。羽田野姓が多い中で、中央には「北之坊」の文言があり、神角寺の関係者が造立に携わっていたことを示唆しています。

 

4 城久保の石造物

 鳥屋の供養塔を過ぎて、右に碑銘の並んでいる三叉路を左折して下っていきます。田夫時部落を過ぎて道なりに行けば、国道442号に出ます。右折して少し進めば左側の路肩が広くなっています。ここに、邪魔にならないように車を停めます。この辺りは大字栗林は臼木部落で、城久保と申しますのは小字名かシコナでしょう。

 路側帯の端の方に、とてもかわいらしいお顔のお地蔵様がお祀りされています。このお地蔵様が、石塔群への上り口の目印です。お参りしたら、左奥へとのびる細道を上っていきます。

 説明板の内容を転記します。

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城久保石幢

 この地蔵塔は、天文18年閏月28日(1549)に造立されたもので、高さ2.21m、基盤・幢身・龕部・笠部・宝珠等もほぼ原形で保存されている。
 この地は「しばの」と呼ばれ、臼木区衛藤家墓地で、衛藤姓7戸の人々によって現在まで大切に維持されてきた。
 この塔の脇には、弘化年間に衛藤姓の人々が造立した石幢の記念塔があり、墓地入口には馬頭観音像などもある。

朝地町教育委員会

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 細道を上って少し進んだところから、左に折れてさらに上れば墓地に出ます。少しの距離なのですぐ分かりました。

 お観音様など、4体の仏様が並んでいます。左から2番目は供養塔の様相を呈して、立派な造りです。お参りをして、先に進みます。石幢は比較的大型なので、すぐ分かります。

 これは素晴らしい。どっしりと、重厚感に富む造りです。笠と中台が対になっており、両者ともに装飾性を極端に排除してシンプルなデザインでありながらも、よう見ますと微妙な内反りが施されており、非常に洗練された印象を受けました。もちろん墓地に付随する地蔵塔であり鑑賞目的のものではありませんが、単に石造美術としての視点のみをもってしても優秀作であると存じます。

 お地蔵様の彫りが浅いので写真では見えづらいと思いますが、実物を見ればよう分かります。しかもめいめいが生き生きとした感じで、細部まで行き届いた表現です。このように、矩形の龕部に1面あて2体、計8体の像(通常は六地蔵様と二王様)を配した石幢は、大野地方で盛んに見かけます。まことほんとに、大野地方は石幢の宝庫といえましょう。この地方の庚申塔は文字塔が主で、刻像塔も小型で眷属の少ないものが多くあまり目立ちません。その一方で、石幢は大型で優れた造形のものが多数見られます。道路端などで簡単に見学できる場所も多いので、当地方の石造文化財探訪の端緒としてもふさわしいと思います。

 こちらが説明板にあった、石幢の記念碑です。記念碑と申しましても単なる碑銘ではなく、板碑の様相を呈しています。銘の確認は省きました。

 墓地下の伐採地からは雄大な山々を一望できます。

 

5 栗栖の石仏

 城久保のお地蔵様のところから県道をどんどん上っていき、栗栖バス停の角を左折します。少し行くと、右側の岩壁に棚をこしらえて仏様がお祀りされています。特に文化財指定などされておらず標柱もありませんが、たまたま行き当たりました。たいへん個性的な像容で、「上井田の名所めぐり その1」で紹介した大字池田は池水の石仏と同様、地域色豊かなものです。

 このように、横一列に並んでいます。個々の関連性は不明です。向かって左の1基には2体が並んで浮き彫りになっていますので、しめて5体です。

 不勉強で何の仏様やら見当もつきませんでしたが、頭についた赤い小さなお顔がたいへんおもしろく、心に残りました。お慈悲の表情に対して、赤いお顔にはなんとなく不気味な雰囲気が漂い、その対比も興味深うございます。下の方に鶏のようなものが彫ってあるような気がして、或いは2臂の青面金剛(ごく稀に見かけます)の庚申塔ではあるまいかとも一瞬思いましたが、おそらく違うと思います。

 右は馬頭観音様でしょう。3面のお顔を平面的に表現して、横並びになっていますので炎髪が異様に横広くなっており、珍妙を極めます。でもよう見ますと3つのお顔の表情をきちんと違えて、馬の頭も写実的な表現でありますし、丁寧に彩色を施しています。左右それぞれが漫画的な表現で、たいへん親しみ深うございます。

 こちらの仏様は、破損した頭部を別石で補うています。このような事例は方々で見かけます。頭部を奉納された方の信仰心や優しい心根が感じられます。

 こちらも個性的ですばらしい。3面のお顔を平面的に表現してあるのは先ほどの馬頭観音様と同じですが、こちらの方が丸顔にていよいよかわいらしく、御髪が笠のように広がっているのも見れば見るほどおもしろいではありませんか。

 ここに掲載した写真では少し草が生えていますが、グーグルストリートビューで確認しますとこの写真よりも後の画像で、草が全く生えていません。地域の方のお世話が続いていることが分かります。

 すぐ近くには、イゼがドンドンになったところに大きな木が育ち、その木蔭には水の神様と思われる石祠がお祀りされていました。

 

今回は以上です。だんだん草が伸びてきて、山の中の名所旧跡には行きにくくなってきました。次回は耶馬渓の記事を書きます。津民地区か下郷地区を予定しています。

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