大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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臼野の名所めぐり その2(真玉町)

 先日、国東半島を少し巡りました。その際、以前捜して場所が分からなかった木ノ下の国東塔に首尾よう行き当たりました。予想外の立地に驚きましたが、それはもう見事な造りに感激いたしました。それで、今回はその国東塔のほか、近隣の名所や文化財を少し紹介します。

 

4 西村上組の金毘羅宮

 真玉市街地から国道213号を香々地方面に進み、臼野郵便局の角を右折します。臼野川に沿うて進み、道なりに橋を渡った先の左側に臼野公民館と金毘羅宮が並んでいます。ここは西村部落のうち上組です。神社の向かい側の路側帯が広いので、駐車できます。

 国東半島で金毘羅様と申しますと小山の上など、わりあい高所に鎮座している事例が多いような気がしますが、その限りではありません。こちらのように村落の中に鎮座している例も多々あります。なお、こちらの金毘羅様は神明社(臼野郵便局前)の御旅所になっています。4基ある石燈籠のうち、左右夫々後方に位置しているものが特に見事な造りなので、詳しく紹介します。

 いかがですか。竿と中台の一面に牡丹くずしのような波形模様が深く刻まれています。遠目に見て、唐獅子かなと思いました。それと申しますのも、真玉町には狛犬の頭の上に火袋の乗った形状の灯籠を盛んに見かけるのです。ですからこちらもその類かと思うたものの、ぐるりと見ればどこにも顔はありません。唐獅子ではなく、そのような文様であったのです。この種の灯籠は私は初めて見た気がします。讃岐の金毘羅様までの波路遥かな道のりが想起されますし、一般に金毘羅様が航海の安全を司る神様としての信仰が篤いことからも、理に適うた紋様である気がしました。

 宝珠の下部も猫脚になっている点や、扁平な笠の格好のよさ、基壇上の大きく内に巻き込んだ猫脚など、竿の紋様以外にも個性的なところがたくさんあります。石工さんのひらめき・工夫のほどが伺われます。真玉町にはほかにもおもしろい灯籠がたくさんありますから、方々の神社やお寺、お堂に参拝してまわって灯籠を見比べてみるのもおもしろいかもしれません。

 なお、手前の灯籠には「奉燈 西邑上組中」の文言が彫ってあります。邑は村と同義です。

 

○ 民話「吾平さんと大蛇の話」と雨乞いについて

 先ほど駐車場所として示した路側帯に、昔話「吾平さんと大蛇の話」が掲示されています。このお話は昔の雨乞い祈願に関連するもので、地域の生活史の一端を示すものです。

 説明板の内容を記します(より読みやすいように若干改変します)。

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吾平さんと大蛇の話

 昔、臼野の浜に吾平といって、それはそれは正直で働き者の百姓がいたそうです。
 ある日のこと、吾平さんは源光の蛇淵というところで草を刈っていました。するととてつもなく大きい大蛇が一匹現れ、吾平さんは悲鳴をあげて気を失ってしまいました。しばらくすると夢の中で美しいお姫様が現れて「私はお前が目にした大蛇で、この淵に棲む主です。私のことを誰にも話さなければ長者にしてやる」と言いました。しかし吾平さんは黙っていることができず、大蛇のことを喋ってしまいました。
 その晩、源光淵の主の大蛇は、湯布院ヶ池に逃げました。逃げるとき吾平さんの枕元に立った大蛇は、水飢饉のときは訪ねてくるようにと言いました。
 その後、旱が続いたある年、吾平さんは大蛇の棲む湯布院ヶ池に雨乞いに行きました。すると約束どおり、たちどころに雨を降らしてくれたそうです。

※左手の入江付近が浜と呼ばれ、豊かな村人の生活が続いています。

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 吾平さんは大蛇との約束を破って誰かに話してしまいましたのに、それでも水飢饉のときに訪ね来るように言い実際に雨を降らしてくれた大蛇(龍神様)の、なんとまあ懐の深いことでしょう。なんだか突拍子もない展開のような気もしますけれども、細かいところは気せずにどんどん展開していく昔話が私は大好きです。このようなお話というものは、話の骨格は決まっていても、実際に大人が子供に話して聞かせるときにはめいめいが工夫して肉付けをしたのでしょう。同一のお話でも話者によって細部が異なるような事例は方々で見受けられます。

 ところで、このお話に出てくる「湯布院ヶ池」と申しますのは、湯布院町にある山下の池のことであろうと考えます。山下の池には龍神様が住んでいるとの伝承があり、東椎屋の滝とならんで雨乞いの霊験あらたかなるとて有名です。実際に、遠方からもお水もらいに行く例があったそうです。雨乞いというものは段階があって、川汐汲みや雨乞いの盆踊りなど、部落ごとに決まった手順があり、第一段階、二段階…と経てもなお雨が降らない場合、最終手段として山下の池や東椎屋の滝など、竹の筒などを持って遠方まで歩いてお水もらいに行ったというエピソードが方々に残っています。灌漑設備が幼稚な時代には雨乞いの祈願は真に迫ったものでしたし、戦後になってもなお遠方にお水もらいに行った地域もありました。このようなお話が伝わっているということは、臼野から山下の池までお水もらいに行ったことがあるのでしょう。子供に話して聞かせるとき、山下の池では分からないので「ゆふいんが池」としたのかもしれません。なお、用字は「由布院ヶ池」の方がよい気もしましたが、ここでは説明板に従い「湯布院ヶ池」のまま記しました。

 

5 高田の霊場

 さて、いよいよ木ノ下の国東塔です。実際に訪れてみますと、現地には国東塔以外にも板碑や五輪塔があったほか、岩屋の中には仏様が並び霊場の様相を呈していました。それで、項目名としては高田(こうだ)の霊場とします。高田と申しますのは古い地名で、今は木ノ下に含まれます。

 道順を申します。近くに適当な駐車場所がないので、金毘羅様の前の路側帯に車を置いたまま歩いていきます。金毘羅様のところから横山方面に少し進んで、1つ目の角を左折してすぐ先を右折、道なりに左・右と鉤の手に折れたら正面の尾根のかかりが雲雀塚です。正面に雲雀塚に上がる石段があり、その半ばから右に入ったところに国東塔が立っています。

 この石段を上ります。ここまでの道順が少し分かりにくいうえに、標識が全くありません。なお、写真には国東塔が小さく写っています。
※いずれ訂正されるとは思いますが、現在表示されているグーグルマップの位置情報(雲雀丘国東塔)は間違いなので気を付けてください。雲雀丘国東塔とは今から紹介する国東塔のことです。

 石段の途中からの景色です。とんでもない場所に国東塔が立っています。法面の下は民家の坪です。木ノ下には昔、浄土寺というお寺があったそうです。このお寺は廃寺になって久しいものの、部落内にあるお堂に浄土寺関連の石仏などがお祀りされています。浄土寺はかつてそれなりの規模を有するお寺であったらしいので、この崖上の細い通路上に位置する国東塔や板碑、五輪塔、岩屋もそれに関連するものではなかろうかと考えました。

 石段の半ばから右に折れて崖の中間の細い通路を辿れば、ほどなく五輪塔と板碑の集積されている場所に出ます。板碑は、倒れているものも含めて少なくとも3基はあります。その中でも写真のほぼ中央に写っているものは状態が良好で、薬研彫りされた三尊形式の梵字がくっきりと残っています。真玉町は板碑の作例が比較的少ない地域で、残っている板碑は簡略化された造りのごく小さなものばかりです。このように梵字が残る板碑は稀でしょう。

 五輪塔は、右手前のものはそれなりに大きい物の、ほかは小さいものばかりです。原形をとどめているものはごく少なく、水輪のみを串団子状に積み上げたものが目立ちます。ばらばらに壊れたりしていたものを粗末にならないように集めたのでしょうが、この立地にあっては更なる破損が懸念されます。

 板碑のところから少し進めば、写真のような岩屋があります。一口に岩屋と申しましてもいろいろな形状がありますが、こちらは矩形で、入口は石材でもって庇を設けています。このような造りのものはおそらく、たとえば大不動岩屋とか朝日夕日の岩屋などよりは時代が下がるのではないでしょうか。修行の場というよりは、仏様をお祀りするためにこしらえた場所のような気がします。

 中央には木彫りの仏様が一段高くお祀りされており、その左右には夫々5体ずつ石の仏様が並んでいます。いずれも風化摩滅が著しく、輪郭線をもとどめないほどに傷んだものもあります。像容から仏様の種別を推量することは困難でした。しかしながらきちんと棚をこしらえてめいめいに花立てやお湯呑が置いてあり、線香立てなども用意されています。地域の方の信仰が篤いのでしょう。

 細い通路の行き止まりのところに、五輪塔と国東塔が並んで立っています。この国東塔は保存状態がすこぶる良好であるばかりか、全体的によう整うたデザインで、細部まで行き届いた秀作です。県指定の文化財であり、これほど見事なものなのに対外的にはほとんど知られていないようです。

 まず火焔から相輪につながるところの蓮坐の花弁の細やかさといったらどうでしょう。中膨れになっており、写実的な表現です。相輪下部の請花・反花は一石づくりで、基壇のそれと対になっています。この小さい部材にも丁寧なお細工が見られ、請花は単弁、反花は複弁で、その境界には連珠がくっきりと残っています。笠は照屋根で、隅がピンと撥ねているのがよいと思います。塔身は茶壺型ですが膨らみが豊かでどっしりとした感じと優美さとを兼ねておりこれまた形がよいし、首部の塩梅もようございます。そして特に注目すべきは、基壇の蓮台です。やはり請花・反花が一石造りで、先ほど申しましたように相輪のそれと同様ですけれども、やはり造りが大きいので細部までよう分かります。花びらは上下で対になり、その表現をあえて違えることにより複雑かつ優美な雰囲気を表現できています。連珠文の塩梅も適切です。

 つぶさに観察してみて、この塔は真玉町に残る国東塔の中でも屈指の優秀作であると感じました。興味関心のある方にはぜひ見学をお勧めいたします。なお、南北朝時代から室町時代前期の造立と考えられているそうです。

 

6 雲雀塚の神社

 国東塔から石段まで戻り、上ります。雲雀塚の由来は後で説明します。

 特に荒れたところもなく、容易に通行できました。少しの距離ですから、国東塔を見学したらぜひ上まで足を伸ばしてみてください。

 上がり着いて左方向に分かれる道の下りはなに宝塔が立っています。後家合わせと思われ傷みも進んでいますけれども、笠の大きさから元々は大型の、立派なものであったと推察されます。こちらも浄土寺に関係があるのでしょうか?

 なお、この道を下って行けば下の車道に出ます。

 正面には神社の拝殿らしき建物があります。この神社の呼称が分からず、『真玉町誌』にもそれらしい記載がありませんでした。この奥に戦時中の忠霊塔が建っているので、それに関連するものかもしれません。

 拝殿の裏側に回りますと、雲雀塚の由来を記した碑が立っています。内容を転記します(片仮名を平仮名に、旧字を新字に変えて句読点を補いました)。

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雲雀塚記

補佐雲雀塚社●中

樹木鬱蒼苺苔纏綿霊碑屹立す、是芭蕉聖翁の高田雲雀塚とす。年暦殆二百星霜を過く、仄に聞く、当山海蔵寺住僧某之を建設し、翁の高弟野坡氏九州最初之碑也とて塚前に於て連歌会を催されし其記宝暦中に焼亡すと云。嗚呼惜哉高田は本村の内の大字にして其名僅に西村部落に残りて旧地は単に木ノ下と称せり。喬木深々の故なり。口碑の伝其滅亡を恐れ碑頭更に此碑を安す。

ひはりより上にやすらふ峠かな

石材の施主岩永貞十郎は安永荘助の嗣醸酒家を興し其義父の墓石に供せられて此の碑に充られき。

明治二十六年春
第七世東月斎坡誌顕玉庵黙紅書

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 右の碑には戒名を彫ってありますが、墓碑というよりは供養塔のように思います。先ほどの由来書にもありました連歌会を催した人と関係があるのでしょうか。左に2基並ぶうちの手前には何らかの文様が彫ってありますが文字が見当たらず、詳細が分かりませんでした。

 鳥居の柱の文字や神額の文字が全部消されています。「忠勇」などの文字が見てとれまして、この奥にある忠霊塔に関係するものと分かりました。おそらく戦後、時勢の移り変わりによってこのような文言が残ることに障りが生じて、消されたのでしょう。私は、歴史を伝えるものとしてそのまま残してもよかったのではないかとも思いましたけれど、それは戦争が終わって長い年月が経っている今の時代に生きる者の感覚にすぎないのかもしれません。特に戦後しばらくの間は、社会情勢的にも障りが大きかったと思われます。

日露戦争記念碑

 基壇の傷みが気にかかります。このほか、もう少し奥には基壇のみ残して上部が取り除かれた、何らかの碑ないし塔の跡がありました。八紘一宇の碑かなとも思いましたが、詳細は分かりません。

 

7 納屋の六地蔵様と庚申塔

 今度は臼野浜部落を目指します。一旦国道213号まで後戻り、香々地方面に少し進みます。道なりに橋を渡り、二股の直前を右折するとほどなく、左方向に分かれる2車線の道に入ります。

 この道路は、現時点ではここまでしかできていません。もしかして堅来の谷までトンネルがほげるのでしょうか?この少し手前の左側に車を停められる場所があります。

 駐車場所の正面の小山の麓に観音堂があり、そこから上れば墓地が広がています。その墓地の入口あたりに六地蔵様と庚申塔が立っていますので、それを紹介します。ここは臼野浜のうち納屋(のしや)です。

 たいへん素朴で、愛らしいお姿の六地蔵様です。なんと優しそうなお顔でしょうか。立派にお祀りされています。大野地方では、墓地の入口の六地蔵様は石幢として造立してある例が多々見受けられるのに対して、国東半島ではこのように単体のお地蔵様を6体並べてあることが多いように思います。このような六地蔵様はどこの墓地でも見かけるので石造文化財としては等閑視されておりますものの、夫々に個性があります。こちらの六地蔵様は特に心に残りました。

青面金剛6臂、3猿、2鶏

 残念ながら風化摩滅が進んで、細かいところがほとんど分からなくなっています。わかる範囲で、特徴を記しておきます。

 まずおもしろいのは、枠取りの仕方です。上端が波形模様になっていて、その際にいっぱいいっぱいのところまで日輪・月輪が嵌まり込むようになっているので、ここがやや歪んでいるように見えます。しかも瑞雲が、火焔輪に接していますので何とも珍妙な飾りのようになっているではありませんか。火焔輪はアーチ状の表現で、これを掲げる主尊の両腕のカーブとも相俟ってまるで、フラフープを見たような環になっているのも面白うございます。主尊のお顔は輪郭線すらおぼろげで、まるで犬のように見えます。腕は最初4臂かなとも思うたのですが、よう見ますと体前に回した腕もあるようなので、6臂と判断しました。

 猿はごく小さく横並びで、中央が少し下がっています。また、みんなが正面向きではなく、右の猿は左向きで、中央の猿も少し左を向いています。おそらく元々は細部まで細かく表現していたと思われますのに、痛んでおり残念です。でも、猿と鶏のコロンとしたかわいらしい感じはよう残っていると思います。

 

今回は以上です。次回は竹田津シリーズの続きを書きます。

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