大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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別府・浜脇の名所めぐり その2(別府市)


 久しぶりに別府・浜脇地区のシリーズの続きを書きます。前回は大字浜脇のうち、河内谷から隠山部落にかけての名所旧跡を巡りました。今回は大字浜脇、赤松部落の名所旧跡をたくさん紹介します。写真が多いので長い記事になります。

 

○ 赤松と別大国道の今昔

 赤松部落は、端的に申しますと石仏の里です。別府市は温泉や地獄めぐりで著名ですが、堀田(ほりた)や隠山、山家(やまが)など、石造文化財の多数残る地域もあります。その中でも赤松は頭ひとつ抜きん出ていると言えましょう。それはもうおびたたしい数の仏様が道路沿いに並んでいるばかりか、観音寺・安国寺跡の石仏群もまたものすごい数です。しかもその一つひとつが全部異なりますし、ロケーションも素晴らしく、散策がてら巡拝されますと必ずや心に残ることでしょう。

 そもそも赤松は、かつては交通の要衝でした。いま、別府・大分間の往来は通常、国道10号「別大国道」を通ります。ところがあの道の整備は明治以降であり、それ以前は波打ち際をやっと通るような間道(近道)でした。波が高いときは、タイミングをはかって急いで通り抜けないと波にさらわれてしまうような危険箇所もあったそうです。その頃の本道は、銭瓶峠(ぜにがめとうげ)経由で高崎山の裏を越すルートでした。別府側から申しますと山家から赤野、赤松経由で銭瓶峠まで上り、峠の辻を左にとって柞原様の下手に抜けていました。この道は海岸線を辿るよりは安全ですけれども、昔の山越道ですから難儀をすることもあったでしょう。山家から赤松にかけての道路沿いにたくさんの仏様が並んでいるのは、道中の安全を願うてのことと思われます。

 昭和初期より海岸線の道路整備が本格的になりました。昭和40年代に別大電車が撤去されて片道2車線になり、平成半ばには片側3車線のさても立派な道になりました。狭間に抜けるにしても、鳥越峠のループ橋が完成してからは赤松経由の道を通る車は稀になりましたので、今は地域の方以外の通りがほとんどない、静かな山里になっています。高崎山を真横に見て、遥か麓に別府湾を見晴らす好展望の地で、梅や桜、あじさい、紅葉など四季折々の風情は素晴らしいものがあります。

 なお、15年ほど前までは赤松の石幢のところから銭瓶峠までの間が、普通車だと運転に難渋するほどの隘路にて、しかも人の頭くらいの大きさの凹凸が施された舗装が延々と続き、車が傷みはすまいかと心配になるような道中でした。滑り止めにしてはあまりにも激しい凹凸に辟易したものです。あの当時の記憶がある方は特に、赤松廻りのルートを嫌う傾向にあるようです。今は一般的な舗装で凹凸もないので、道幅は狭いものの気をつけて通れば問題ありません。

 赤松を目指す際、東別府駅横から上がるとたいへん狭い道か、この世のものとは思えない急坂の二者択一にて、いずれもお勧めできません。少し回り道ですが浜脇から新道を上りまして金比羅山のトンネル手前の側道を下り、突き当りを左折、次の二股を右にとるとよいでしょう。赤野部落からは、ものすごい急カーブの九十九折を繰り返します。路傍の仏様が道中の安全を見守ってくださっています。赤野を過ぎると一旦人家が途絶え、次の部落が赤松です。そのかかりの右側に観音寺と安国寺跡が並んでいます。路肩が広くなっているので車をとめて、ここから歩いて散策します。ちょうど車を停めたところに名所案内の看板を整備してくださっていますので、これをよく見ておきましょう。

 

8 観音寺

 観音寺と安国寺は、実際は同じお寺です。こう申しますと語弊があるかもしれませんが、旧安国寺が、隣接地に移転して寺名を観音寺に変えたのです。両者の参道は一続きにて、お山めぐりの様相を呈しており、たくさんの仏様を巡拝できるようになっています。今回は観音寺経由で安国寺跡に抜けましたが、途中に急な下り坂がありますから反対回りの方がよいでしょう。

 観音寺参道の上がりはな、少し高いところにさっそく仏様が並んでいます。横の碑銘は昭和4年にこの霊場を開いた記念碑のようです。

 崖口にて、正面から撮影できませんでした。厚肉にこしらえてあり、しかもよう整うた見事な仏様です。お参りをしたら参道の坂道を上っていきます。舗装されてあるので安心して通れます。道路沿いにそれはもうたくさんの、数えもやらぬほどの仏様が並んでいます。

 下の段には羅漢様がずらりと並び、上の段はお観音様です。羅漢様は所作やお顔が全部違います。この写真は最近撮ったもので、10年以上前に訪れたときよりもやや荒れ気味になっているような気がしました。この立地ですからどうしても落ち葉が積もりがちで、掃除も大変なのでしょう。

 お弘法様は特別に立派な基壇をこしらえて、お屋根をかけて鄭重にお祀りされています。その周りに寄せられた仏様の台座には、寄進者のお名前がくっきりと残っていました。両脇のお地蔵様もあわせて、観音寺の石仏群の中でも特に印象深うございます。

 お地蔵様やお観音様が2段に分かれて、相変わらずものすごい密度で並びます。ゆっくりとお参りしてまわると時間がかかります。安国寺跡とあわせて1時間程度見ておいた方がよいでしょう。

 たくさんの仏様が並び、優しいお顔ばかりでほっといたします。お参りをしていきますと胸の曇りも晴れゆかんとする心地にて、ほんにありがたいことではありませんか。しかも立像と坐像を規則的に交互に配しており、全部造形が異なりますのでたいへん見ごたえがあります。数が多いので、さっと流し見で通り過ぎてしまいがちかもしれませんけれども、ぜひ一体々々を確認してみてください。

 途中から坂道の傾斜がやや増してきますが、問題なく通れます。やはり以前よりも荒れ気味で、竹が倒れているのが気になりました。この道沿いにも次から次に仏様が並んでいます。

 甲斐米吉さんの寄進による仁王様です。胸像の様相を呈した表現方法は、磨崖仏ならまだしも、このような単体の石仏では珍しいと思います。しかも舟形光背を伴います。厳めしい風貌が上手に表現されていて素晴らしい。なお、これと同種の仁王様が安国寺跡にもあったような覚えがあるのですが、今回は見つけられませんでした。

 上りついたところの仏様です。上段のお不動様の素朴な表現もさることながら、特に心に残ったのは中段左右の子安観音様です。稚児を膝に乗せてあやす姿は、お観音様というよりは人間のお父さんお母さんのように見えてまいりまして、ほのぼのとした雰囲気が心に残りました。

 小さな覆い屋の中に、女性の坐像が特別にお祀りされています。説明板がなく、由来が分かりませんでした。このお寺に関係のある方でしょうか。上方や額のしわなど、地域のおばあさんのような感じがしてたいへん親しみ深いうございます。

 観音寺は現在無住のようで、施錠されています。建物の外回りを辿っていけば舗装が切れて、なだらかな下り坂になります。

 通路沿いに仏様が並んでいるので、辿るべき道筋はすぐ分かります。

 お不動様の素朴なお顔が素晴らしい。風化が進みつつありますけれども、今のところ細かいところまでよう残っています。

 さて、竹林に入ったら丁字路になっています。右はすぐ行き止まりで、このお寺の関係の方々の墓地になってます。三界万霊塔やたくさんの仏様などが並んでいますので、お参りをしたら折り返して下っていきます。

 竹林の中のたいへん気持ちのよい道(冒頭の写真)を下っていけば、安国寺跡の磨崖仏のところに出ます。ただ、この先はやや荒れ気味です。よう滑りますので、先ほど申しましたように逆回りに辿ることをお勧めします。

 

9 安国寺跡

 今回は観音寺から一続きの道順で紹介しているので、安国寺跡を奥から入口へと辿ることになります。説明の都合上、参道入口のところに立っている説明板を先に掲載します。なお安国寺跡については、先日久しぶりに訪れた際やや荒れ気味になっていてよい写真が撮れなかったので、ここでは10年ほど前に撮った写真を掲載します。

 より分かりやすいように文章を改変して、説明板の内容を記しておきます。

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赤松村安国寺跡の磨崖仏

 当磨崖仏は四国の石工により彫刻されたと伝えられている。最上部の向かって右手は恵比寿大黒像、左手は便所の神様といわれる。この2体を含めて安国寺跡周辺に5体、観音寺参道脇に1体、計6体の磨崖仏がある。磨崖仏の銘には「大正十二年三月六日安国寺○会渡辺淳教シナ」とある。また、安国寺参道脇の「天皇陛下聖寿無窮」の塔の裏には「当山労働創立者 境内土地一万坪提供 二反八畝八拾二歩 同 ヨシヱ 同 スカ 淳教の弟妹」の銘がある。住職渡辺淳教は自ら寺を建立し、国と国民の安寧を願って石に彫刻を施し、最後の磨崖仏に刻印して1年後に遷化したと思われる。

 寺はその後、海の見える場所に移設し、寺名を観音寺と改め現在に至っている。

 なお、およそ660年前に天龍寺開山夢窓国師が提案し、征夷大将軍足利尊氏と弟直義が推進して、全国六十余州に一寺一塔を建立した安国寺と、当地の安国寺は無関係と思われる。かつてこの地に安国寺があったという記録はない。しかし、天下泰平を祈願するという精神を受け継いでの寺名継承ではなかったかと推測される。

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 私は安国寺跡で4体の磨崖仏を見つけました。あと1体と、観音寺参道脇にあるという1体も気を付けて捜してみたのですが、分かりませんでした。

 さて、観音寺から道なりに下ってくると最初に出会うのがこちらの恵比須様です。大岩にお顔だけがドーンと彫ってあって、たいへんインパクトがございますとともに、その朗らかなる表情に心が明るくなってまいります。年代が新しいこともあってか文化財や史蹟の指定は受けておりませんけれども、大分県の磨崖仏群の一端をなすものです。近年はインターネット等で盛んに紹介されて、興味関心のある方が訪れるようになりました。

 恵比須様の大岩の上には大黒様が立っています。磨崖ではなく、石板に半肉彫りにて表現されています。それにしても、なんとまあ楽しそうな大黒様でしょうか。〽大きな袋を肩にかけ、大黒様が来かかると…の唱歌や、または亥の子や手まり遊びで唄った大黒様の数え唄を思い出しました。

 こちらが説明板にあった便所の神様です。さても珍妙なる表情に目が釘付けになります。安国寺跡では、えびす様と並んで大人気です。左奥の方ですから、見落とさないように捜してみてください。最近は木の枝に隠れがちになっています。

 参道の半ばから横に入ったところにも2体の磨崖仏が残っています。こちらは胸像の様相を呈しており、お慈悲の表情が素晴らしい。見落とす方が多いようですが、参道から少しの距離です。

 ひとつ上の写真の磨崖仏のすぐ近くです。こちらはお顔だけが彫ってあります。

 参道はなだらかな坂道になっていて、その両側にたくさんの仏様が並んでいます。しかも小さな仏様が点々と並ぶのではなくて、多種多様な像様の仏様がある程度のまとまりになって、その配置も工夫されています。

 丸彫りのお不動さんのお厳めしいお顔、丸々と肥った体は、一目見たら忘れられません。また、その並びにたくさん寄せられた半肉彫りの羅漢さんは、めいめいに所作や表情が違います。後ろの列は見づらいと思いますが、ぜひ全部を確認してみてください。

 大きい仏様は言わずもがな、小さい仏様も細かいところまで丁寧にこしらえてあります。

 こちらが説明板にもあった「天皇陛下聖寿無窮」の塔です。半肉彫りの四天王の生き生きとした表現が見事なものではありませんか。こちらは銘の内容に時代を感じるお塔ですけれども、その造形の素晴らしさは安国寺跡・観音寺双方の石仏群の中でも屈指であると感じていました。ところが先日久しぶりに訪れたところ、このお塔がなくなっていました!下の石積みや小さい仏様は残っていたのに、塔だけが見当たらなかったのです。経緯は分かりませんけれども、地震で倒れてしまい破損したのかもしれません。そうであれば残念なことです。

 

10 赤松の岩穴地蔵様

 車を置いたまま、県道を歩いて進んでいきます。道路端に池があって、その手前の崖に小さい龕をたくさんこしらえてお地蔵様が安置されています。昔から「赤松の岩穴地蔵」と申しまして、近隣に知られています。

 シダがはびこって仏様も隠れがちの状態ですが、破損個所はほとんど見られません。龕に収まっていればこそのことでしょう。

 このように道路からそれなりの高さがありますので、手入れは容易なことではなさそうです。これは、道路を拡げたときに崖の下部をぎりぎりのところまで削ったためではあるまいかと推測いたしました。

 少し先の、西国霊場の近くに岩穴地蔵様の説明板が立っています。説明板の位置から、岩穴地蔵様と西国霊場を混同される方が多いようです。内容を転記します。

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赤松の岩穴地蔵群
20体の石仏 それぞれに個性

由緒
 県道沿いに、崖をくりぬいて20体の地蔵群が安置されている。右から数えて10体目がいちばん大きく、その他は高さ70cmくらいである。奉納者か、供養を受ける人か、名前を刻み込んだものもある。年代はかなり古い。
 この道路は昔、大分・別府を結ぶ主要な道路だった。石仏に旅の無事を願い、留守の安全を祈った人も多かっただろう。一帯の崖には高さ30cmほどの石仏がいくつもはめ込まれており、いわばミニ石仏の感が深い。

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11 赤松の西国霊場

 岩穴地蔵様から少し進むと、高い法面の下に横長の龕をこしらえてたくさんの仏様がお祀りされています。

 このように、かなり幅広の龕をこしらえてあります。道路工事か法面工事で、新しく龕をやり替えたようです。大きく7つの龕に分かれており、左端は小さなお地蔵様です。それ以外はほとんどがお観音様であり、西国三十三所の写し霊場の様相を呈しています。ただ、めいめいの台座に○番、○番…と札所の番号を彫っていないことから、札所巡りの石仏を寄せたのではなくて、最初からひとまとまりにお祀りされていたと考えられます。

 左から3番目の龕の仏様が最も大きく、特別の台座を設けて「西国巡拝」云々の銘を伴います。このお観音様が主であることは言うまでもありません。

 では、右の龕から順に見ていきましょう。

 車だと素通りしていまいますけれども、歩いて巡拝いたしますと一つひとつの個性豊かな表現がよう分かります。残念ながら傷みがすすんだものも見受けられますが、概ね良好です。

 千手観音様、如意輪観音様など、それぞれ半肉彫りという表現の制約の中で、精いっぱいの工夫でもってその特徴的な像様を上手に表現してあります。しかも蓮台やお顔の表情など、細かいところまでよう行き届いた秀作ばかりです。

 一つとして同じ表現はありません。同じ種類の仏様でも、少しずつ異なります。お観音様は、お地蔵様と並んでどこの地域でも非常に信仰が篤かった仏様です。特に西国三十三所の巡礼が流行して以降はその傾向に拍車をかけたことでしょう。

 一体々々の写真は繁雑になるので控えます。引きの写真で紹介してあるので細部が分かりにくいのですが、実物をご覧になれば細やかな表現がよう分かります。

 丸彫りの如意輪観音様は、その優美なお姿が際立っています。特別の鄭重にお祀りされてあつのは、こちらにお参りをしてお線香をあげれば西国三十三所を巡拝したのと同等のお蔭がありますよという意味でしょう。昔、西国三十三所の巡拝など夢のまた夢であった時代には、特に信仰が篤かったと思われます。特に赤松部落は別府湾を見晴らす好展望の地です。瀬戸の島々を越えてまだ先の、西国三十三所を遥拝しつつ、こちらの如意輪観音様にお参りをしたのではないでしょうか。

 左から2番目の如意輪観音様と、先ほどの丸彫りの如意輪観音様を見比べてみてください。半肉彫り、丸彫り夫々の表現の工夫がよう分かると思います。また、千手観音様などで、たくさんの腕を体の横に線彫りにて並行気味に並べる手法をよう見かけます。これなど、写実性と記号的な表現を融合させた名案であるといえましょう。同様の発想をする方は多かったようで、方々の石仏で見上げる表現です。

 左端の龕はお地蔵様ばかりです。小さな坐像は、全部表現の傾向が異なります。夫々地域の方が寄進し、点在していたものを集めたのでしょう。頭が取れてしまっているお地蔵様が3体あって、そのうち2体は新しい頭をすげ替えてあります。もう1体も、小石でもよいので代わりの頭を乗せてさしあげてはと思いました。

 

12 赤松の弘法大師霊場

 西国霊場から少し進んだところの崖上に、四国八十八所の碑銘が立っています。道路から見えるのですぐ分かります。

 右側から通路を辿れば簡単に上ることができます。お弘法様などが安置されており、弘法大師霊場の様相を呈しています。上の写真を撮り忘れてしまいました。

 崖下にも3体お祀りされています。道路が拡がる以前には、もっとたくさん並んでいたのかもしれません。

 

13 赤松の景勝地高崎山と別府湾の景観)

 道なりに行って赤松部落の外れあたりまで来ると、高崎山が別府湾に落ち込む景観を楽しむことができます。銭瓶峠から下ってくるとまた格別で、眼下に海が広がり、高崎山の特異なる山容が映えます。

 昔の方は、峠を越して赤松方面に下っていくときに、遥か麓に海を見晴らしていよいよ別府の街が近くなったことを実感したことでしょう。

 

14 赤松の石幢

 家並みが途切れて右に急カーブするところの崖上に石幢が立っています。保存状態がすこぶる良好です。崖上への通路が整備されているので、簡単に見学できます。

 説明板の内容は、一部に誤謬が認められます。それで、その箇所を訂正したうえで、より分かりやすいように文章を改変して説明内容を記します。

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赤松の石幢

 石幢は笠地蔵、灯籠塔、六地蔵などと呼ばれており、各種石仏と同様に信仰の対象である。
 赤松の石幢は銭瓶峠への道の右手、小高い丘の上に立っており、別府市より有形文化財に指定されている。高さは229cmで、龕部に彫られている像は六地蔵と二王(十王像のうち2体)である。幢身には「奉造立六地蔵一体天正九年八月建立」の陰刻があり、400年以上も前のものである。形も文字もわりあいしっかりと残っている。

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 石幢は、幢身が八角柱をなし、中台は側面が台形に面取りをしてあります。全体的にすっきりとしたフォルムの、格好のよい塔です。しかも笠の形もよくて、角々から中心に向けて稜線を出してその中間がなだらかにたわんでいるので、さても優美な雰囲気が感じられます。

 その横並びは宝塔で、上部が失われているのが惜しまれますが残部の状態はまずまず良好です。

 説明板にあるとおり、龕部には六地蔵様と仁王様が浮き彫りになっています。その状態は良好でお顔の表情までよう分かります。簡略化された表現ではありますけれども、光輪や丸っこい肩のラインなどがよう合うています。

 また、二王様は写真には写っていませんが、頭の形が異なりますのでお地蔵様との区別は容易です。説明板には「仁王像2体」とあったのですが、仁王像ではなくて、十王様のうちの2体という意味の「二王」がこの場合は正しい用字です。

 

今回は以上です。次回は久しぶりに国東半島の記事で、国東町豊崎地区のシリーズを書いてみようと思います。

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