大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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別府・浜脇の名所めぐり その5(別府市)

 今回は朝見神社、菅小野の寄四国、枝郷の愛宕様を紹介します。また、朝見周辺に昔あった名所・景勝地にも言及したいと思います。このうち菅小野の寄四国は以前、このシリーズの「その1」に掲載していたのですが、都合により今回の記事に移しました。

 

34 八幡朝見神社

 朝見神社は、別府市内に数ある神社の中でも特に著名です。今さら感があるのですが、このブログを開設した当初は「有名なところは基本的に省く」という方針でした。朝見神社もインターネット上で多数紹介されておりますので掲載を迷うたのですが、やはり地域を代表する名所でありますのと、境内の石造文化財に言及している例が少ないようなので、項目を設けることにしました。

 国道10号から永石(なげし)通りを上っていけば、左側に大きな一の鳥居が立っており、そこから門前町の敷石道がはじまります。徒歩の場合はこちらからがよいのですが、車のときは永石通り経由だと駐車場への道順が分かりにくいので、流川通り経由の方がよいでしょう。流川通りを上り、NTTの角を左折(朝見神社の看板あり)します。赤い欄干の陸橋で祇園通りを跨いで浄水場の方に上っていけば、左側に広い駐車場があります。

 境内から正面参道を振り返った写真です。車の場合はこの道を通らずに裏から境内に入ることになるのですが、ぜひ二の鳥居くらいまでは足を伸ばしていただきたいと思います。この参道自体が非常に雰囲気がよいし、参道から境内を見た景観がまた格別です。参道には瓢箪の形の石と盃の形の石があります。初詣の際にこれを踏むとマンがよいと申しまして、地域の方に親しまれています。写真はありませんが、注意深くさがしてみてください。

 ここで『別府市史』より、朝見神社の項を引用しておきます。

~~~『別府市史』(昭和3年版)より

八幡朝見神社

 別府市氏神なり。境域約二千坪、神苑清浄、社頭の老杉二株と周囲三丈余の大樟樹とは地方稀に見る神木たり。社殿の壮麗、宇佐神宮に亜ぐ。建久七年十月、大友能直、家臣能登之助国久に命じ、鶴ケ丘八幡宮を勧請して、斎祀したるものにして、大雀命外三神を祭る。社宝として大友能直の兜並びに吉弘統幸の太刀を蔵す。

~~~

 昭和3年当時の別府市は、旧の別府町・浜脇町の区域のみです。補足しますと、八幡様は元は乙原(おとばる)に鎮座していたそうです。ところが文禄5年の大地震でもとの社地が崩落したので、現在地に遷座したとのことです。この大地震鶴見岳が噴火し、瓜生島(うりゅうじま)や久光島が沈みました。海門寺は、もとは久光島にあったと申します。

 旧の『別府市史』にて言及されていた老杉2本が聳え立ち、門をなしています。これほどの大杉は、近隣在郷では稀でしょう。

 さて、三の鳥居から右に折れたところの広場を萬太郎広場と申しまして、これは駐車場の近くにある萬太郎清水に由来します。

 

○ 民話『萬太郎清水の由来』

 昔、江戸時代んこつじゃ。流川に萬太郎さんちゅう孝行もんがおったんと。萬太郎さんのお父さんな病気になっち、お医者に診てもろうたけんどわんなるばっかしじゃ。とうとうお医者も匙う投げちしもうち、まんのわりいことにゃ、そん頃日照り続きじ一面水が涸れちしもうちのう。お父さんな水が飲みてえち言うけんど萬太郎さんがたにゃ水が一滴もねえ。尋ね尋ねち、朝見ん八幡様じ水が湧きよるらしいち聞いた萬太郎さんが汲みに行っちみりゃあんた、上から下まで大行列じゃ。やっと汲んじ帰っちお父さんに飲ますりゃ、お父さんなあれよあれよとようなったじゃねえかえ。八幡様んお蔭じゃろうか、まこち不思議なこともあるもんじゃなあ。それじ、いつん間にやらそん湧き水を萬太郎清水ち誰とねえ言うごとなったんじゃあとこ。もうしもうし米ん団子。

 

 萬太郎広場の中央には平和の碑が立っています。その後ろに数基の石塔が残っておりますので今からそれを紹介します。

 左の塔は明らかに後家合わせで、宝塔の上に宝篋印塔か何かの四角の部材、その上には祠か何かのお屋根が乗っています。見るからに珍妙な造形ですが、なんとなく豪勢な感じがいたします。地震等で崩れたものを立て直した際に、積み方が分からなかったのかもしれません。右の塔は国東塔の残欠です。下部に一石づくりの請花・反花が確認できました。右に転倒しているのはこの塔の塔身と思われます。相輪は欠損し、後家合わせで宝珠を乗せています。

 こちらは宝珠から上と基礎を欠損しているものの、この区画にある石塔の中では最も状態のよい国東塔です。花びらをふっくらと表現してあり、そのカーブが下のへりまでなめらかにつながっているのがよいと思います。露盤の格狭間もよう残ります。

 こちらは国東塔・宝篋印塔・五輪塔の後家合わせです。大きな宝珠と急傾斜の笠がアンアバランスな感じがいたします。請花・反花は夫々二重花弁で細やかな彫りがなかなかのものです。基壇の格狭間も恰好がよいと思います。

 こうして見てみますと後家合わせや欠損のある塔ばかりで、完成形のものは残念ながら見当たりませんでした。多くの部材を寄せ集めて塔をなしたということは、本来はもっとたくさんの石塔があったということです。その当時の様子を窺い知る術はもはやありません。

 萬太郎広場を通り抜けて、正面参道の右側にも立派な参道があります。もみじと石造りの参道・玉垣などがよう合うて、素晴らしい景観をつくりだしています。この参道の右側、一段低いところには一字一石塔が立っていますので、見落とさないように気を付けてください。

磊石書写 金文永明 ※磊と写は異体字
奉納大乗妙典全部
一市真佛 佛果●成

 右の行の頭、「石の下に点が4つ」の字の読みがはじめは分かりませんでした。「渋」と「澁」の関係性から推して、この点4つは上の部分と同じ形を下に2つ並べる意味ではあるまいかと思い調べたところ、思うた通り「磊」の異体字(略字)であることが分かりました。「磊石」とは石くれ、ごろごろした石の意味です。左の行の下から2文字目だけはどうしても分かりません。「国構えの中に縦棒」です。異体字だと思います。お分かりの方はご教示ください。

 側面には漢文がびっしりと彫ってあります。状態が良好で読み取りは容易と思われますが、その面の写真を撮り忘れたので詳細は省きます。

 一段上がれば「奉納」と彫った台座の上に砲弾が置いてあります。これは昭和9年の奉納です。当時は国威発揚を願うて奉納されたと思われますし、戦時中には戦意高揚の役割を担うたことでしょう。今の世の中においても歴史を伝え平和を願うためのモニュメント的な意味があり、撤去せずにこの場に残しておくのは意義深いことです。萬太郎広場の平和の碑とあわせて見学すれば、近隣の小学生などの学びにもなると思います。より分かりやすいように、説明板の設置が望まれます。

 ここから萬太郎清水の方に行けば庚申塔が1基、ひっそりと立っています。

幸神

 行書体の筆文字をそのままに彫っており、特に「神」の字の彫り方がよいと思います。「幸神」という銘は、庚申塔で稀に見かけます。この用字は「こうしん」とも「さいのかみ」とも読めます。県内の庚申様は、一般に作の神としての信仰が篤かったようです。しかし本義的には賽ノ神的なものであったと思われます。幸神の用字は縁起がよいし、庚申様の信仰のあり方を示すものとしてもたいへん分かりやすいと感じました。

文久元辛酉
五月吉日

 紀年銘もくっきりと残っており、容易に読み取れました。

 こちらの狛犬は毛並の渦巻や足の爪など、細かい部分の彫り方が見事なものです。全体的に見ても、前脚をピンと伸ばして立つ姿がほんに凛々しく、デザインとして優れていると思います。

 さて、朝見神社は本殿の造りがすこぶる立派です。ぜひ紹介したかったのですが、いつ行ってもお参りの方がおいでになって、人が写り込まないように写真を撮るのに難渋します。それで、今回は本殿周辺の写真は省いて、昭和13年刊の『別府市民読本』の引用で代えます。

~~~『別府市民読本』(昭和13年)より

八幡朝見神

 流れも清い朝見川のほとり、一段高くなつた所に、八幡朝見神社の森がある。御幸橋を渡り、大鳥居をくぐつて、爪先あがりの参道をゆくと、二本の大杉が見える。その間をぬけて、石のきざはしを上りつめると広前に出る。
 朱塗の社殿はあたりの翠に映えて見るからに美しく、本殿の屋根には千木をたがえ、かつを木を並べ、いとも神々しく拝される。拝殿の横手には千年も経つたかと思はれるやうな、御神木の大樟が、枝を張り、葉を散らしてゐる。少し離れて絵馬堂があり、その下には神馬の銅像が建つてゐる。
 境内はあまり広くはないが、眺望はよく、その一隅に佇めば、眼下にひろがる甍の果に、波静かな別府湾をのぞむことが出来る。
 本社は建久七年、豊後守護大友能直が鎌倉鶴ケ丘八幡宮を勧請したもので、社地はもと乙原にあつた。祭神は仲哀天皇応神天皇仁徳天皇神功皇后の四柱で、明治六年村社となり、大正七年郷社に列し、昭和十二年十二月県社に列せられた。
 本社の主なる祭典は三月十五日の祈年祭、十月十九日の例祭、十一月二十三日の新嘗祭であつて、之を三大祭と称してゐる。又、本社を中心とする市内各社聯合夏祭は毎年七月二十五日から二十九日まで執行される。
 市民は敬神の念に厚く、毎年朔日、十五日には早朝から参拝するものが極めて多い。それがため参道の両側には露店が立並ぶほどである。

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 御神木の大樟はいつ見ても素晴らしい。幹周りの太さ、枝ぶりなど何もかも見事なものです。初詣のときなど、夜にお参りにいきますとライトアップされています(冒頭の写真)。格好のよい神馬にも注目してください。

 本殿左側にはお弘法様など数体の仏様が、縦一列に並んでいます。神仏分離の際によそに動かされたものを、こちらに戻したのでしょうか?経緯は存じませんけれども、きちんとお祀りされています。

 正面参道を少し下れば、小さな庭園もあります。お池には鯉がたくさん泳いでいました。

 朝見神社は、亀の井バスの名所解説で次のように紹介されています。
「左は吉備山いただきの あの密林は模範林 麓の丘は桜咲く 花の名所の浄水池 その左手は八幡宮 朝見神社でございます」

 

○ 黒岩園について

 戦前の別府の観光案内を見ますと、名所旧跡の項に別府公園、旧の浜脇公園、松原公園、海門寺公園といった公設の公園のほかに、つつじ園、山水園、黒岩園といった私設の公園も紹介されています。このうち黒岩園は朝見にありました。絵葉書を所有していないので、昔の観光案内を引用してその様子を紹介します。

~~~『通俗別府温泉案内記』(大正4年)より

 黒岩遊園は長松寺の前、小高い岡で、別府に珍しい水が豊富で、眺望も無比の地である。私有地であるが眺望のよい為め、遊覧者が多いので公開して居る。茶亭を設け休憩の便に供し、泉水に川魚を放ち、好みに応じて、清酒の調理に応ず。設備中だから完成の上は、別府第一の好評を博するであらう。

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 大正4年には既に公開されていたものの、整備の半ばであったことが分かります。

~~~『泉都別府温泉案内』(大正6年)より

黒岩園

 浜脇より朝見に至る坂路五丁、迫の谷の一曹岡にある幽邃閑雅の勝地であります。園内茶亭の設あり、池中の川魚は好みに応じて調理します。黒岩某氏有の公開遊園。

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 大正6年にはおそらく完成していたのでしょう。いつ頃まで、一般公開の遊園(公園)として続いたのでしょうか?

 

○ 鮎返の滝について

 八幡朝見神社の駐車場から車道を上り、道なりに左に折り返していけば朝見浄水場(昔は桜の名所として有名でした)の脇を通って山手の横通りに出ます。左折してすぐさま右折すれば志高湖やりんご園への近道です。この道は幅員狭小で舗装も悪く脱輪が懸念されるうえに、整備が行き届かずカーブミラーの破損や植物がはびこって車を擦るなど多々あり、落石だらけの危ない道です。昔通ったことがありますが、運転に胆を冷やしました。通行は到底お勧めできないのですが、説明の都合上この道を通る体裁で書いていきます。

 いきなり胆を冷やすような道幅で上っていき、ヘアピンカーブで右に折り返します。この突端から踏み分け道を行けば、尺間様の境内に至ります(正面参道の急階段を通らずに済みます)。尺間様は写真がよくないのでまたの機会に紹介します。道なりに行けば右側に鮎返貯水池があります。今は立ち入り禁止になっていますが、戦前、貯水池がなかった頃は小滝の連続する渓流になっていて、その奥詰め、六枚屏風(後述)の麓には大きな滝がありました。この滝は鮎返の滝として古い名所案内で紹介されているほか、昔の鳥観図や絵地図にも滝の絵が描き込まれています。乙原の滝や裳裾の滝(河内谷)と並んで広く親しまれていたそうです。所有していませんが絵葉書を見たことがあります。今も残っていたらきっと、身近な景勝地として人気を呼んだことでしょう。

 

○ 六枚屏風について

 貯水池の入口のところで左に折り返して、道なりに上っていきます。しばらく行くと、右側に入口をチェーンで封鎖された林道が分かれています。この林道を櫛下(くしげ)線といいます。その途中に昔、六枚屏風と申しまして小山が屏風のように連なった奇勝がありました。正確に言えば今もその一部が残っているのですが、植林により景観を損ねているばかりか、高速道路の工事により半ばを破壊されたので昔の面影は全く残っていません。

 昔の六枚屏風は木があまり生えておらず、古い写真を見ますとこれを六枚屏風と呼ばで何と呼びましょうといった雰囲気でございます。遠足の目的地として親しまれていたほか、六枚屏風経由で志高湖までハイキングする方も多かったとのことです。いま、別府の町から志高湖に行くには横断道路経由がほとんどで、稀に隠山経由で行かれる方もあるかと存じますが、いずれにせよ車かバイクでしょう。でも昔の行楽というものはのんびりしたもので、六枚屏風経由で山を越すか、または乙原の滝の脇から山を越して歩いていきました。現代人にくらべて健脚の方が多かったのでしょうし、道中も含めて自然探勝を楽しんでいたのだと思います。乙原の滝経由のルートは、今は道が崩れて通行困難とのことですが、戦前に学校の遠足で歩いたというお話を伺ったことがあります。

 戦後、六枚屏風を演習場に使用すると申しまして進駐軍に接収された時期もあったのですが、昭和30年代までは子供達が自然探検に訪れたりすることもあったようです。その後、時代の流れで徐々に下火になったのでしょう。今では昔の景色が失われたばかりか、「六枚屏風」の名前も忘れられつつあるのが残念です。ご高齢の方には盛んに懐かしがられますし、別府観光の歴史の一端でありますから、鮎帰の滝や六枚屏風の昔の景観(絵葉書)をパネルにして、志高湖畔など適切な場所に掲示されてはと思います。

 

35 菅小野の寄四国霊場

 鮎返貯水池経由で車道を進めば、岳ノ脇(たけのわき)部落の手前で隠山から上ってきた道と合流します。その合流地点を左折して隠山方面に少し下りますと菅小野部落に出ます。実際に訪れるときは、隠山経由がよいでしょう。道順はこのシリーズのその1を参照してください。

 隠山部落からずっと上ってくると、右側に写真のような光景が広がります。菅小野部落に着きました。この三叉路のすぐ左脇に石段があります。神社か堂様がありそうな雰囲気でしたので上ってみましたところ、あっと驚きました。

 たくさんのお弘法様が寄せられて、お屋根をかけてあります。ざっと数えて88体ありましたので、新四国霊場であることが分かりました。今は寄せ四国の様相を呈しております。元からこのようなお祀りのしかたであったのか、または山中に点在して札所めぐりのできるようになっていたものをこの場所に集めたのか、判断がつきませんでした。説明板などがなく由来が分かりませんが、ほんにありがたい霊場でございます。地域の方が大切に守っていらっしゃるのでしょう、こんなに立派にお祀りをされているのですから、きっとお蔭があると思います。

 車道から僅かの距離ですから、通りがかりにでもちょっとお参りに立ち寄られてはいかがでしょうか?

 

36 枝郷の愛宕

 岳ノ脇経由で先へと進み、りんご園を過ぎてなおも進みます。右側に枝郷部落の公民館(分教場跡)があり、そのすぐ裏手に愛宕様が鎮座しています。

 小さな神社ですけれども、木森の中のたいへん雰囲気のよい場所です。道路からすぐ近いので、簡単にお参りすることができます。

 枝郷は大字別府のうちで、つまり旧の別府町のうちということですが、同じ別府町でも朝見や別府駅周辺などの市街地からはかなり離れています。枝郷という地名からもその関係性が推察されます。自然豊かでたいへんよいところですし、近隣にはりんご園、志高湖、神楽女湖、小鹿山、由布川峡谷などといった名所がたくさんあります。

 

今回は以上です。次回は国東町の名所を少し紹介します。

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